電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

ガキの頃から心が不全

10月末の日付で更新しているが、現在12月29日、もうすぐ今年も終わりだ。

12月3日に慢性心不全と診断され、即時入院、15日に退院した。以下、事実関係を記しておく。加えて、なるべくカメラを引いて、可能な限り、主観的な雑感も客観的になるように。

ここ数年の引きこもり生活から、8月のアタマに、十数年ぶりに外に出て仕事することになった。

引きこもり中は、比較的健康的な生活だった。この歳なんだ、もう健康に気を使うことに照れないと決めたことが大きい。が、外に出るとそうはいかない。色々ある。色々あるんである。それでも何とか食生活だけは健康的なモノを維持していたのが10月の半ばくらいまでか。酒量は既に増え始めていたが。

朝と昼は健康的な食生活を続けてはいたものの、そこそこ遅く帰って、自宅で強い酒を飲んで、日が変わってから締めのラーメン。それを週に3回か4回。加えて土日は、まあ週末だし、ストレスも溜まっているしと自分に言い訳して暴飲暴食。

11月に入った頃(わずか数週間で)おかしくなった。激しい息切れ。夜の息苦しさ。面白かったのが、こりゃマズいぞと、すぐに食生活を改善し、特にカロリーには気を使い、かなりのダイエットメニューにしたにも係らず(なので11月は酒もほとんど飲んでいない)、どんどん腹(というより胸に近い位置)が膨らんでいく。体重こそ計ってなかったものの、日々デブっていく。最初は気胸かなと思ったくらいで。それなら息苦しさとも矛盾しない。

「救心」という自分くらいの世代なら、誰でも知っている薬がある。これを買って飲んでみると少し楽になるような気がした。息が切れるのは、まだいい。ただでさえ、ぶつ切り睡眠なのに、息苦しくて寝付けなかった。これが多少改善した気がした。が、悪い方向に慣れてしまっただけだったのかもしれない。だって、朝から電信柱にしみついてしまうのよ(東京で生まれたオヤジ)。数十メートル歩くだけで。おまけに足つるし。

これはヤバいかもと思いながら、姪っ子の結婚式が11月末にあったので、そこまでは我慢した。今から思うに、食生活をすぐに改善した為、逆に中途半端に持たせてしまったのかもなあとは思う。自宅から駅まで2分、勤務地は地下鉄の駅から直通。ろくろく歩かなくとも、日々働けてしまう環境であったことも裏目に出たかも。

仕事も少しキリがよくなったと思ったら、12月に入って1日と2日、行けなかった。辛くて。3日、循環器内科がある、可能な限り近い病院をネットで検索して行って、症状を話すとすぐに検査開始、レントゲンを撮っただけで、救急車を呼ぶと先生に告げられ、ストレッチャーで運ばれ、救急病院である荻窪病院に救急車で搬送。

初めてERに入って、わくわくだぜ。あれだ、堺雅人演じるやり手の先生がチュッパチャップスしゃぶってる奴な(誰も観てない)。意識は勿論はっきりしてる。歩こうと思えば歩ける。最初の病院までは歩いて行っていたわけだし。最初はストレッチャーに乗せられる事を拒否ったくらい。わくわくしなきゃ嘘ってもんだぜ。

続く。

「続・ガキの頃から心が不全」

長いお眠り

軽度の睡眠障害が長年治らない。

睡眠障害といっても、すぐ目が覚めてしまうだけで、普通は2時間弱で目が覚める。ごくたまに4時間眠れるが、あくまでたまにだ。これでもう一度寝ようとすると、すっかり眠れなくなってしまい……となると、立派な障害なのだが、引きこもっていた時期は別に眠れないなら眠らなければいいだけで、結果として1日3回睡眠とかやっていたし、それで体調が悪くなることもなく、気にしなければ、別に障害というほどではない。

規則正しく外に出るようになった今(まあツイッターでは散々呟いているが、引きこもり生活が遂に終わってしまったのだよ)だと、久々の外仕事であることもあり、結構疲れているので、一旦くっきりはっきり目が覚めてしまっても、しばらくすれば眠れる。8時間あれば、そのうち7時間弱、少なくとも6時間は眠ていられるかな? というくらいの感じ。

長年の持病(?)な為、睡眠の質が悪いからといって、疲れが取れないということもないと思う。そもそも1年に数回しか6時間とか7時間とか続けて寝ていることがないので(たまたま今日7時間くらい続けて眠れてしまって驚いたところ)、比較対象もないし、まあ気に病まなければどうってことないよなと思う。思うんだが、実は外仕事で規則正しい生活になったら、すぐに直るだろうと思っていたことも確かで、8月の第2週から外に出るようになって、丸二ヶ月、一向に治る気配はみえず、さすがにこれは病気と認識した方がいいのかもしれぬ、特に困ったことがなくてもだ、などと考え込むことも多くなり、最近は何だか特殊で重い病気になってしまったような気分である。おれは病気だもう長くないじきに死ぬだろう。

昭和ゴジラの伝統について考える

引き続き、ゴジラ問題である。問題なのか。

駄目ゴジラ
続・駄目ゴジラ

結局、昭和ゴジラも全部観切って、ゴジラ全28作コンプしてしまった。

パンピーな自分がいくらディスろうとも、相変わらず、ギャレス・エドワーズ版「GODZILLA」に「これぞゴジラだ!」的な、いかにも偏差値低そうなツイートが流通しているので(このままだと普通に「好評」ということで終わるよな)、憤懣やるかたないというか、アホちゃいまっか感ムラムラ収まらずというか、酷評は続くよというか、「これぞゴジラ」のゴジラとは一体何なのか、特に昭和ゴジラとは一体何なのかということを考えてみた。その伝統というか共通的な特徴を抽出してみる。平成シリーズとミレニアムシリーズもいくらでも分析出来るのだが、ヒール・ゴジラに拘った1984年のリブート以降はやはり別にして、あくまで昭和シリーズに焦点を絞る。

1)ゴジラは概ね添え物。
2)後半は怪獣同士が長々だらだら戦う。
3)軍隊はいつも間抜けで無能。
4)文明批評性は刺身のツマ程度にはある。
5)放射能の危険性は有り得ないほど軽視されている。
6)反核とか難しい話は出てこない。
7)いつも駄作。

これらの特徴から外れるところがあるのは1作目と2作目くらいで、他はほぼ上記すべてが当てはまる。ここに来て、はっと気付く。そうか、そうだったのか。ギャレス版ゴジラは、上記1)〜7)のうち、4)の文明批評性がゼロに近いことのみが惜しいが、他はすべてを丁寧に踏襲しているではないか。つまり、ハリウッドが世界がひいては人類が昭和ゴジラを認めたのである。

続・駄目ゴジラ

ゴジラなんだが、好評が多いのが気にいらねえな。というわけで、補足というかネタバレ追加というか。

前エントリーでこう書いた。

ゴジラと戦う怪獣(がいることは、予告や煽りでは周到に伏せられている)のネーミングからして駄目だ。ムトーはねえだろムトーは(しかも何故かギャオスと「モンスターズ」のタコ怪獣を足して割ったような造形)。オオタチとかヤマアラシとか名付けたパシリムが如何にセンスがいいか、否、如何に今回のセンスが悪いかという話。制作に入ってる日本人、止めろよ。ここから駄目過ぎ。だからヘドラや今回みたいな駄作しか作れないんだ。

ここ、やはり細かく書かないと伝わらないというか、分かる奴だけ分かればいい度が強過ぎたようだ。

怖い映画が苦手なおれに、いつも怖い映画を薦めてくれる、とても親切な、かふかたん(@kafuka_tan)さん(無理して観るとこれが見事に全部面白いんだ。怖いけどな笑)と、たまたま、ツイッターでやり取りしたので、そのまま載せておく。

nagao_memo8 ゴジラ、こうなったら未見の60年代の奴も全部見切って、正しいアンチとして生きていくことを決意したのであった。釈がんばれ(意味不明)。しかしガキの頃、どうしようもなくヤでゴジラが嫌いになった理由である、ミニラとか観るの拷問に近い。

kafuka_tan ゴジラ観て、ブログ拝見しました!ただただ納得。映像自体は満足したんですけど、いかんせんストーリーが適当というか…不可解過ぎでビビりました(苦笑) あっ、そうそう、吹き替えで観たんですが「ムトー」じゃなくて「ムート」と呼んでましたね。

nagao_memo8 パンフだとムートーと綴られてますね(つまりわざとムトーと書いてます)。これは微妙ですけど、グレートムタ(ご存知?)のお父さんのグレートカブキは被爆者設定なんですね。ここから来てるか確信はまったくないですけど。

kafuka_tan えええ、知りませんでした!公開前から武藤みたいな名前だとは思ってましたがグレートカブキにまさかそんな裏設定があったとは。なるほどーあり得ますね。

nagao_memo8 アメリカでは表設定なんですよ。ヒバク星人で顔ボロボロだからメイクしているんです。あの時代はそれが普通だったという(苦笑)。そういう酷い設定は日本人レスラー以外にも結構あります。で、自分世代の人間ならMUTOと言われれば、当然それを連想しちゃうという。

kafuka_tan ああ米国での設定ですか!いろいろ察しました。。MUTOのネーミングの元ネタこれはほぼ間違いないのでは。しかし、て考えるともう、ますます無茶苦茶な映画な気がしてきました…その設定だった場合、向こうの人は「被爆怪獣」みたいな感覚で思ってるってことですよね。

nagao_memo8 そうそうヒバク怪獣の子供がMUTOなんです。ヤな設定でしょ? そこがブログのセンス云々に繋がってます。日本人の制作がそれ許しちゃねえ……。

kafuka_tan いやぁ…かなりアカンですね。リスペクトどころか舐めとんのかとしか思えませんねぇこれは…。

nagao_memo8 東宝が権利商売なのに、それを許して、日本人の制作もそれを許して、ビジネスだからと言って煽ってる日本の映画関係者って……。マチヤマさんあたりは絶対気付いてる筈(で多分どこでも言ってないと予想)。という、まあ左巻きな違和感が凄く強いんですよ。

kafuka_tan 公開前の町山さん、たしか、たまむすびで「今回のゴジラは大丈夫」みたいに言ってた気がするんですけど、そこは大人の事情的なもんなんでしょうねぇ。

nagao_memo8 そうそう。おれ的にはデカいトカゲの方がよほどマシという。つまりヒバク怪獣二世を日本の原発事故で家族を失ったアメリカ人の若者が核兵器で退治する話なんです。ただ、ペントコストが被爆者でも別に気になりませんよね? だからセンスの問題だと。

kafuka_tan ペントコスト…(ググって思い出しましたw)そうだパシリムの司令官も被爆者でしたもんね。なんというか、広島の反省どころか結局米国マンセー映画作っちゃったって感じですね、もうどうしようもない…酷いわぁ(泣)

nagao_memo8 だからこそ「原発問題を扱っているから」と褒める論調に、物凄く強い違和感を覚えるんです。違うだろ、二十世紀から何も変わってないだろと。

こういうことなんだよね。だからこそ、ただ駄目だったつまらなかった以上の、アンチな気持ちがムラムラと湧き上ってくるんである。あんなもん、喜んでいたら恥ずかしいとすら思うわ。まっ五十過ぎて好きでもないゴジラ映画細かく研究した挙句、怒ってるおれも随分恥ずかしいとは思うんだが。

そうそう、ここで書いたヘドラについても追加でディスを。

ゴジラ対ヘドラだけどさ、さっき色々チェックしてたら、封切り、地上波の帰ってきたウルトラマン初回の3ヶ月後なんだね。発想はどっちが先か知らんが、パクリのそしりは免れないよね。けど、帰ってきたウルトラマン初回の監督は本多猪四郎なの知らんかった。


地上波の劣化コピーを映画でやって、前衛もクソもないよな。>ゴジラ対ヘドラ。まっそんなの作った奴が今回ゴジラの制作なわけで、傑作になるわけないというか。

為念で書いておければ、「帰ってきたウルトラマン」の初回は、ヘドラとまったく同じ設定の「ザザーン」という怪獣が出てくる。

そんなわけで、傑作なのに、誰も観てない「改造人間釈対ゴジラ」をみんな観よう! ……何も繋がってません。

駄目ゴジラ

さて、ハリウッド版「GODZILLA」である。

ハリウッド新作ゴジラが評判よさげなので、何とか日本公開までに、せめて15本目(リブート前)まで観てしまおうと思っているんだが、これ結構苦行だわー。

と軽い気持ちでチェックを始めたゴジラの過去作チェックは、上記の15本の昭和ゴジラは結局8本しか観てないんだが(再見含む)、その後の平成シリーズ7本、ミレニアムシリーズ6本は全部丁寧に観てしまった。その結果は下記の通り(ツイッターにはもう少し詳細を語っているところもあるので、興味のある方はそちらへ)。

こうして、おれのゴジラを巡る、ひと夏の魂の彷徨は、釈対ゴジラが大傑作であるという新事実を発見したことを唯一の収穫として終わるのであった。……もう秋が近い。

いや季節は今まさに盛夏に突入なんだが、封切り日に観てきたわけだ「GODZILLA」。で、観た直後のツイートがこれ。

GODZILLA」。オキシジェンDもメーサー砲もスーパーXも機龍もドン・フライも出ないけど、ゴジラがアレするので、まっいっか、という感じ。……ギャレス、実はガメラの方が好きなんじゃねーの疑惑。 あと、アレの動きが監督一作目と同じなのは、ちょっとどうなの。

最初はこの辺で止めておいたんだが、辛抱堪らず、はっきり書いてしまった。

封切り初日だから、ちょっと遠慮しておこうと思ったゴジラについてだが、もういいや、はっきり書いておく。すげえ駄作。日本リスペクト、原典リスペクトはあるので、赤点ぎりぎりという表現が正しいと思う。

というわけで、今回はギャレス・エドワーズ版「GODZILLA」を酷評する。以下、徹底的にネタバレとなる。未見の方はご覚悟のほどを。結局、おれにとって出来がよく大好きなゴジラはこの3本しかないというのが結論だ。

   


では、以下本編。

まずは、ゴジラと戦う怪獣(がいることは、予告や煽りでは周到に伏せられている)のネーミングからして駄目だ。ムトーはねえだろムトーは(しかも何故かギャオスと「モンスターズ」のタコ怪獣を足して割ったような造形)。オオタチとかヤマアラシとか名付けたパシリムが如何にセンスがいいか、否、如何に今回のセンスが悪いかという話。制作に入ってる日本人、止めろよ。ここから駄目過ぎ。だからヘドラや今回みたいな駄作しか作れないんだ。

あまりに人間ドラマが薄い。過去のゴジラでも、ここまでドラマが薄いのは珍しいほど何もない。しかも徹底的に空振り。人間ドラマは何も始まらない。否、始まるんだがあっという間に序盤に終わってしまう。そこ以外は誰も動かない。米軍どこまでも無能で無活躍(さすがに指揮官バカ過ぎて苦笑)。渡辺謙の芹沢博士は、アイパッチ芹沢よりむしろ志村喬の役割を負わされ、解説しては嘆いているばかり。出番が多い割りには大した役じゃない。

けどさ、人間ドラマなんていくら薄くとも、ゴジラゴジラなんだから、それでもまだ何とかなった筈なんだが、そもそも、原水爆実験はゴジラを生み出したんじゃなく殺す為のものだったという設定からして、何だよそれ状態。というか、ここは理解の仕方によっては、ゴジラと日本への最大の冒涜と理解することさえ出来る。ここまでデタラメで無責任な原水爆実験肯定は初めてみたわ。

挙句、過去のハリウッド作品と同じように、核兵器原発の脅威を、過小に評価していて駄目に拍車がかかる。ダイハード5か(これのチェルノブイリと核の扱いはとにかく酷い)。過去ゴジラだって、コスモクリーナー的な機能が描写された奴は何本もあった。特に1984年のリブート版「ゴジラ」(廃炉を完成させてくれる便利ゴジラ)。ところが、今回は、ゴジラ自身は核とは何の関係もなく、コスモクリーナー怪獣・ムトーをやっつけに現れるだけなんだな。やっぱり橋を横から壊すハリウッド怪獣映画の伝統は踏襲してたりするが、頼むよゴジラ、ムトーがフクイチ周辺を除染するだけでなく、世界中の核廃棄物を食べきるまで倒さないでよ!

あまりに凡庸なベビーフェイス(ホントはこれをタイトルにしたかったんだが、ネタバレなんだよな)。

こうして封切り前に散々語られていた「原発を巡るシリアスなテーマ」はむしろ欠点としてあげつらうべきとなる。全然ファーストを踏襲してないじゃん。まるで逆というか。

そうして、後半まで溜めて溜めて、ようやくゴジラが口から光線を吐く。放射能という描写はされていないので光線としか表現出来ないんだが、やっとカタルシスが訪れる。溜めまくった演出のお陰で、おおーっとなる。が、後から考えると、スペシウム光線状態。最初からそれ使えよ!

どこまでも凡庸で駄目なゴジラなのであった。デブだし。少しダイエットしなさい(おれも)。

おれのツイッター

すっかりブログを更新するのを忘れていて、現時点でもう7月3日なんだが、とりあえず6月更新分ということで。ずるずる。

何か書くことあったような気がするけれど、一時期のようになんか思いついたら、ブログ用にメモしておくという習慣を失ってしまったので、何も覚えてない。しょうがないので、ネットについてでも書くか。

最近は完全にツイッターが一時期よく言われていた用語である「マイ・ポータル」になっていて、ネットにおけるすべての起点となっている。若干メルマガ通知をメーラーで受けているものの、ほとんどは大新聞さまのタダ会員用の通知だったりするので、あんまり見ていない。そもそも大新聞さまのネット記事だって、ツイッターが起点だ。

自分が呟く方、というか、時事ネタや、映画やドラマの雑感、つまりチラ裏な呟きをする為のツールという用途だけでなく、はてなアンテナRSSという、どうも性に会わずすぐに使わなくなってしまった機能を包括して使えて、つまりPCであれば、Tweenというツイッターアプリがすべて起点になる情報入手(勿論興味が出ればそこから検索したり何なりが始まるわけだ)が、自分のネットライフ(苦笑)に合っているということなんだろう。

一時期散々話題にしていた、フォロー/フォロワーなんていうことも、ほぼ、どうでもよくなっている。読みたいアカウントをいくつかのリストに分類しておいて(この分類も数年間かけて、じわじわ改善している)、あとは、時間のあるなしで、どのリストをどの程度丁寧に読むか決まっていく。

実に快適である。おれの攻撃的ツイッターは完成した。ワールドカップにすら通用しそうだ(と思ったら、予選敗退してしまうのもよくあることで)。

ゴジラにみる文明批評と演出の問題

ハリウッド版ゴジラの新作が、封切りを前にして評判がいい。

日本では何故か遅れて7月公開だが、これに合わせて日本映画専門チャンネルゴジラ全作放送をやってて、とりあえず録画するかと、しこしこ作業。あわよくば公開までに全作観ようと思ったものの、さすがにこれは辛くて断念してしまった。ファースト・ゴジラの出来のよさは改めて認識したんだが、元々自分はファーストだってそんな大したことないだろう説であって(ガキの頃と数年前の2回は観てて、今回少なくとも3回目)、あくまで他が酷いから相対的に浮かび上がっているんじゃないの説というか。

というわけで、おれは基本的にゴジラファンでも何でもないというのが前提。で、全作チェックは早々に断念したが、ポイントポイントで色々とつまんで観てて、ちょっと印象的な2本があったのでそこからの雑感。

まず、1971年・11作目「ゴジラ対ヘドラ」。



これが映画サイトでの評価が高い。監督はこれがデビュー作の坂野義光という人で、この人が今回のハリウッド版ゴジラの制作にも加わっていることや、タイトルから想像出来るような公害問題直結の文明批評的な視点が、ファースト・ゴジラの水爆実験や、新作の原発事故絡みの内容ともリンクすることもあるんだろう。またヒッピームーブメントの影響をモロ被った前衛的なカットがあることや、グロを強調した子供向けには思えない暗いツクリなども評価されているようだ。

一方、その2年後の1973年・13作目「ゴジラ対メガロ」。



こちらは60年代の東宝の粗製乱造ともいえる映画製作を支えてきた一人でもある福田純が監督。若大将シリーズなども撮っている人の作品にも係わらず、最低のゴジラ映画なんて評価もある。何といってもウルトラマン型ヒーローのジェットジャガーというのが出てきて、これが超ショボい。人間サイズのロボットなのに、突如、意思をもって巨大化してメガロと戦い始めたりする(けど弱い)。メガロを擁する地底人が、ウルトラセブンのノンマルトと設定そっくり(パクリに近い)、まったく文明批評性をもたずに単なる悪役になってるところも、低評価の原因かもしれない。

要はこの2作、ともに1970年代の前半の低予算化したゴジラながら、評価が両極端。ヘドラは高く、メガロは低い。

ところが、おれは「ゴジラ対メガロ」の方が全然面白かったんだな。

ゴジラ対ヘドラ」は、お話がちゃんと繋がってない。確かに前衛的なカットは面白くとも、その手のカット以外は積極的につまらない。まったく意味がないまま、だらだらと切れてないシーンが頻出し、いや意味なんかなくとも面白ければいいんだが、面白くもなくて、見ていてイライラする。ゴジラに、空を飛べる力を与えてしまって(笑える飛び方)偉い人に怒られた説(があちらこちらのサイトで書かれている)以前に、監督としての技量が大胆に劣ると思う。映画作品としてまるで駄目。酷い出来。

一方「ゴジラ対メガロ」。前半のきびきびした展開はどうだ。カーチェイスだって悪くない。全体のお話自体にかなり無理があるのも、地上波の戦隊モノに見慣れた目でみれば、大して気にならない。何より無駄なシーンやカットがまったくないのがいい。繋がった話がテンポよく展開していてまったくダレない。後半のゴジラと怪獣の乱闘にしたって、あれ何でさっきやられたゴジラがいきなり復活してるのとか、前後の話が繋がってない箇所が複数あるヘドラに比較して、メガロは一応筋は通っている。コミカルな演出は好き嫌いが分かれると思うが、苦手な方の自分に不快感を持たせるほどではなかった。手練れの監督が低予算に苦しみ、過去作品の使い回しをしながら、何とか完成させた珍品以外の何物でもなく、むしろ積極的な肯定的評価が必要なのではないかとすら思う(勿論、傑作とかいうレベルには達していないけど)。子門真人が主題歌を歌ってるぜ!

その辺の半可通のゴジラファンなら、ヘドラには文明批評性や前衛性があってと過剰に持ち上げていればいいが、マニアな映画ファンで、コアな作品至上主義者としては、そうはいかないんである。

大体、町山さんあたりまで原発問題を扱ってるから今回のハリウッド新作はいい的なノリがあって、そのノリは公開以降に間違いなく強くなることが予想されるのであって、そこが致命的に気に食わない。そんなモノあろうがなかろうがどうでもいいじゃないか。「パシィック・リム」を観よ。映画の出来、作品の出来というのは、もっと本質的な部分で評価されるべきで、文明批評性などとはリンクされるべきではない。

この2作と、丁度同時期の1970年代前半に書かれた筒井康隆の名エッセイに「笑いの理由」というのがある。このブログでも過去2回触れている。

「作り物だからこそ強いんだ」
「笑えない理由」

被るものがある。パロディやドタバタは風刺や批評として効いていると偉くなる的な、権威主義的な評価基準に対し、そんなモノはパロディやドタバタの完成度には何も関係ないのだと、筒井が高らかに宣言した記念碑的エッセイだ。

あれから40年経っても、世界はまるで変わってないわけだ。高々怪獣映画のゴジラだが文明批評性があるから凄いのだ的な言説は未だに語られ続け、おれはそういう意味づけの仕方と持ち上げ方が未だ嫌いだ。そんなことは作品の面白さとは、まったく関係ない。

最も、今回のハリウッド・ゴジラ原発問題とのリンクが、文明批評性というより、話題性と商業的視点から煽りに利用されるのは、しょうがないというより、王道であるとも言え、そこまでを否定するわけじゃないんだが。

それにしたって「ゴジラ対メガロ」において、人型ロボットのジェットジャガーは、倒すべき敵が現れた時、突如意志を持ち、巨大化し、ゴジラと共に敵を倒した後、その意志を失い、命令を与えないと動かないロボットに戻るわけで、なんて素敵なファンタジー、ここにもう少し説得力を乗せられたら、平成ガメラはきっと来るよ的な傑作になっていた可能性すらあることは主張しておきたい。

などと書いていたら、新作ゴジラに対する興味まで失いそうになってしまったんだが、実績ゼロに近い監督のギャレス・エドワースが抜擢されるきっかけとなったデビュー作の「モンスターズ/地球外生命体」を観てみたら、これ、かなり面白い。というか上手い(とは言え、こんなに何カ国も海外ロケした映画が、低予算を売りにしてたら、インディな邦画の人々に怒られると思う。低予算より、小規模でハプニング的な撮影方法こそ強調されてしかるべき)。

……うーむ、やっぱり新作ゴジラには、かなり期待していいんだというのが結論だったりする。



舟を漕ぐ

意識高い系(?)の人たちが、これからの時代はプログラミングは基礎教養的なことを言い出した時、おれはそれは無いと思うぜと半笑いしたクチだし、その思いは今も変わらない。そんな高度なことをやる前に、まずはファイルの概念自体をちゃんと理解した方がいいぜというか。PC系からタブレット系への置き換えが加速していき、益々、ファイルの概念を理解をしないまま、携帯の延長である便利ツールとしてのIT機器とそのOSは練れていき、教養としてのプログラミングなんて時代はやっぱり来なくて、やってくるのは、多くがファイルの概念すら理解しないままIT機器を使いこなす時代なわけだ。

だからこそと思うのは、プログラミングなんて言う前に、基礎教養として、当たり前のファイル概念を理解することと、身体的なスキルとして、キーボードを使いこなすこと(端的にいえばブラインドタッチだ)くらいは、ちゃんと身につけておくと、それがスキルとして充分意味を成す時代がもう一度やってくるのかもしれないぞ。

小保方さん騒動周辺で、一番面白かったのは、そうかお前も理系コンプレックスか、理系が分からないから照れ隠しで馬鹿にしてたのか的な人が、驚くことほど多いこと。そういう奴に限って、文系的薀蓄自慢は大好きだったりする。なあんだ、お前もかを連発だぜ。私学の文科中退のおれがさ。

舟を編むのは非常に特殊な専門職だが、せめてその使いこなし、つまり舟を漕ぐくらいは出来るようにしておけ。今のお前は漕げてない。

ネカマに枝折れなし

佐村河内守や小保方がバキっと折れても、ネカマの勇気くんはタフ。ネカマに枝折れなし。詳細ぐぐれカス。

まあ犯した罪(?)の度合いも、叩かれ度も全然違う。そりゃそうだ。でも偉いよなあ。おれもあんなタフなハートを持ちたいと心底思う。あんなにタフなハートがあれば、受験や英語の勉強ももっと出来た筈だろと思わなくもないものの、恐らくそれは設問の立て方が間違っている。誰でも、苦にならないというか集中が続く領域・ジャンルがあって、一方どうしても出来ないモノがあって、例えば自分だとプログラムを組むという行為だったり、何だったり、長時間集中しても苦にならないモノがある一方(加齢による集中力の低下はある)、未だ英語の勉強はあまり楽しくなくて長時間出来ない。強引に義務として自分に課さないと続かない(から、細切れにして日に何回もやるとか工夫して続けるようにしているわけだが)。肉体労働なんて、もってのほか。苦痛でしかない。

けれど、アフィカスネカマをやることは苦にならない人生って、ちょっと哀しい。もっと他のことが楽しければよかったのに。

たまたま、プログラムを組むことが苦にならない自分を若い時期に発見したからこそ、ここまで食うことが出来た。幸運であったというべきだろう。尤も、それもそろそろ限界にきていて、さてこれからどうするかというところで、色々試行錯誤してるわけだが、若い頃には苦痛だったボーっとしてることが、まったく苦痛にならなくなってきたりして、そういう自分の変化を実感するのは楽しい。若い頃は、時間を無駄にしてはダメだと、ある種の強迫観念があったんだね。

最近は朝から晩までボーっとしてる。単に怠け者になっただけである。それでストレスが溜まらなくなった。だから、それでいいのだ。そうして朽ち果ていくだけの人生になってしまっても、それはそれでしょうがない。勿論、そうではないこれからも色々と構想はしている。どういう方向に変わるにせよ、変わっていくことは昔から苦手ではない。新しい自分を創ることは楽しい。

この項、珍しくオチなし。おお、早速変わってきたぞ。

アフィカスネカマの勇気くん

いや何だよそれという話なんだが、詳細は各自ぐぐれカス。

おれ的には、娑婆で元気にネットゲーマーやってるらしい狂人くん以来の、ハートウォーミング系炎上というか、こういう、その才能をもっとクリエイティブて生産的なところで使えよな子には、どうも弱いんである。ましてやブログにコメントをくれた某業界関係者が山に人を埋めていたなどという話と比べると、もう圧倒的にハートウォーミングで、ネカマ7年続ける心の闇が、おれのハートに火をつけるという感じだ。何も直接的な被害を被ってないしね。

この子はプログラムの勉強などにも熱心で(ポインターって何よという勉強し始めの頃に誰もが苦しむ問題にアドバイスしたこともある)、実際かなりITスキルあるところを見せていたし、何より文才というか煽り才が天才的なところがあり、狂人くんと違ってやってしまったことも犯罪で実刑というレベルではないので、今後もこのまま益々間違った人生を力強く歩んで欲しいと思うが、お父ちゃん(同世代やや年下みたいだ)金持ちそうであるので、まあ、おれなどがお節介やかなくとも大丈夫だろう。

恐らく自分も理力の暗黒面に落ちているからこそ、こういう子に惹かれてしまうというのが前提だが、もし、彼がここを読むようなことがあるなら、是非ともこう伝えたい。世界は安易な市民運動などでは何も変わらない、そのままいけ、キミのような人間だけが世界を変える資格を持っているのだ。

ほとばしるブログ愛

などとタイトルつけながら、新年早々、ツキイチ更新すら忘れるところだった。

今年の目標も最低ツキイチ更新。相変わらずツイッターはそれなりの量を呟いているので、こっちも書こうと思えば、書くことはなくはないんだが、どうもブログということになると、文章凝らないと気が済まないというか、凝らない文章なら書く意味がないというか、凝らないくらいなら書かない方がましというか、そういうことなので、あまり書く気にならない。

他人様とか世間様に報告すべき自分の近況なども特になく、世界に向けて憤るほどのことはさらになく、ぼちぼちでんなと静かにしばらくは生きていく予定であって、また日々の更新が内的に必然となる日もきっと来るとは思うものの、来ないならそれはそれで良い。

ブログというネットにおけるジャンル(?)は、微妙に意味も形式も変えながら、それなりに残っていくとは思うんだが、まあネットの世界、何がどうなるか予想なんか確実に出来るわけもないし、「はてな」なんて会社がどれだけ生き残るのかも微妙であり、まあなるようにしかならない。

と何を書くにしても、かなり投げやりに生きているようだが、そうでもないんだ、オジさん今年もそこそこがんばって生きている(ということにしておいて)。

メリークリスマス、そして良いお年を

そうこうしているうちに、今年も終わってしまうわけだが、今年も実に静かな一年を送ってしまった。最近、まるでもうすぐ死んでしまうかのように、昔のことをよく思い出す。あの頃の自分は五十を過ぎた自分が、家に閉じこもり、仕事もそこそこに、英語を勉強したり映画を研究したりテレビでスーパー主婦を見てそれはそうじゃねえよと一人ごちたりしているだなんて、まるで想像もつかなかった。

このまま、まるで波乱万丈の人生を送った兵が余生を終えるかのように静かに朽ち果てていくつもりなのかと言えば、そんな気持ちはさらさらなく、そもそも波乱万丈の人生なんて未だ送ってなく、それでも、再び胸を熱く焦がすような思いを抱いて、華々しく歴史の表舞台に躍り出るつもり(って何だそりゃ)はあるのだが、つもりはあっても、そのつもりを妨げる様々な困難も眼前に広がっていて、その辺り、何がどうなるのかは自分にも皆目見当がつかない。

少なくとも、もし明日クルマにポーンと跳ねられて死んでしまってもいいように、やり残したこと、やろうと思って出来ていないこと、出来るんじゃないかと思いながらも届いてないことを、こつこつとこつこつと片付けていこうと思っていることに変わりなく、何でそんなことを考えてしまうのかといえば、自分は幸か不幸か、食わせなくてはいけない家族を持つという、人として至極当たり前の責任を負うことをここまで怠ってしまった為、外部から圧倒的に迫られる義務感による生と成功へのモチベーションを持ち得なかったというのが、やはり大きいように思う。

結局この歳になっても、高校生の頃に考えていたことを未だに考えている。たった自分ひとりの為にだけ、もう少し生きてみようと思っている。そうして、やがて、僕が何かを呟くと世界はその瞬間凍りつく。

メリークリスマス、そして良いお年を。

停滞する英語学習

母さん、ぼくのあの英語学習どうなったんでしょうね。最近ちっとも進捗を書かないあの英語学習ですよ。

7月のTOEICの成績が悪くて、悔しくて、ががーっとモチベーション上がって、どどーっと学習量増えたんだが、わずか1ヶ月くらいで萎んでしまった。理由は明確。進歩を実感出来なくなったから。ヒアリング自体というか、いわゆる英語耳はある程度出来るところまで出来た気がして。にも係わらず、ちっとも意味の像が結ばないのは以前書いたとおり。いやいや幾分はよくなってはいる。さすがにね。けれど明らかに止まってしまった。

勿論こんな状態でいくらTOEICを受けても点数が上がることも望めず。そうすると、どよーんとして徐々に学習量は元に戻り、戻っただけでなく少なくなり、10月あたりから、英語学習を始めてから2年で、初めて2日続けて勉強しない日が出来、11月に入ると、遂に一週間無勉強期間も作ってしまい。

ああ、散々ペラペラになるとか書いていた癖に、英語学習、遂に止めてしまうのか、まさかの危機到来。

結果としては、11月の後半から徐々にペースを戻し、現時点では以前程度の学習量には戻している。

けれど、TOEICはしばらくお休みするつもり。少なくとも来年の夏くらいまでは。いやいや、もっと長くなるかも。大きな成長を実感出来るまで受けない。試験慣れという意味ならもう充分慣れたしね。とにかく、もっと英語を頭と身体に染みこまさないとダメだ。あと語彙学習。覚えられないからって、ここのところまったくやってなかったが、これもやり直す。つまり、学習方法自体の試行錯誤は勿論続ける。まあ、そんなにがんばらないけどね。コツコツと飽かず離れず英語に触り続ける感じで。

そうして、来年の今頃には、おれは男になる。多分なれると思う。なれるんじゃないかな。いや再来年かもしれない。

極私的SF映画ベスト10

恒例のベスト10企画、今年は「SF映画ベスト10」ということで久々に参加。
http://d.hatena.ne.jp/washburn1975/20131031 

ここ数年は、参加者増えまくっているようで、集計ご苦労さまです。前に参加したのは、ゼロ年代ベスト10。この頃はゼロ年代の洋画を全然観てなかったけど、ここ数年で随分と観たので、今見直すと選び直したいー。

どうも「SF」と言われると、色々考えちゃう。例えば、今は昔、いわゆる国内第一世代のSF作家が現役バリバリの頃は、SFとはファンタジーの上位概念だったが、今はむしろファンタジーの方が上位概念だよねとか(海外ではそのふたつは別概念! だとか)。なので、むしろ色々考えたくて。しかも、自分がガキの頃からのSFファンで、やがて少なくとも小説においてはそれを卒業してしまった(から若干の疚しさがあって少し語り難い)ので、つまり、SFについて考えることは、自分史を考えることとも近い。

まずは、順位を先に並べてしまおう。

1位)「タイムマシン/80万年後の世界へ」1960年 ジョージ・パル監督
2位)「地球最後の日」1951年 ルドルフ・マテ監督
3位)「パシフィック・リム」2013年 ギレルモ・デル・トロ監督
4位)「恋はデジャ・ブ」1993年 ハロルド・ライミス監督
5位)「スローターハウス5」1972年 ジョージ・ロイ・ヒル監督
6位)「バンデットQ」1981年 テリー・ギリアム監督
7位)「バック・トゥ・ザ・フューチャー」1985年 ロバート・ゼメキス監督
8位)「ガメラ2 レギオン襲来」1996年 金子修介監督
9位)「きみがぼくを見つけた日」2009年 ロベルト・シュヴェンケ監督
10位)「エンド・オブ・ザ・ワールド」2012年 ローリーン・スカファリア監督

さて詳細について。

1位)「タイムマシン/80万年後の世界へ」
2位)「地球最後の日」

不敬という当たり前の概念

もともと根っからの左巻きな為、このネタは結構気楽に書けるんである。

天皇にいきなり手紙が何か差出ししたら無礼だろ。当たり前のことだと思うんだが、どうも、そういうことを言うと、不敬とか戦前じゃないんだからという話になってしまい、言い出すと右翼にされてしまう風潮がある。

相手が天皇であるから問題が大きくなるのは当然だとは言えるが、寺社や皇族に対する無礼を単に不敬というのだ。それを不敬罪という刑法の罪にしたら、それこそ戦前だが、彼は国会議員なのである。ここで、自分はわざと陛下もつけず、天皇天皇呼ばわりするのと違うのだ。パンピー天皇に対して陛下もつけず、さらに言えば天ちゃん呼ばわりしたって、単なる不敬なだけで、何の罪にも問われない。しかし、国会議員が、恐らくこの国で最も礼儀が重要である場で、無礼を働くのは、言語道断を通り越して、その無知蒙昧ぶりを国民全員が悲しむべき事態。道義的責任が問われて当然なのだ。

政治哲学上は天皇制を否定せざるを得ない共産党であっても(今天皇制について公式にどういう扱いしているかは別として)、所属の議員が皇族系の典礼に出るとなれば、礼儀は守る筈で、システム自体を否定すべく行動に表したいなら、そういう典礼には出席しないというのが、唯一の回答だろう。出席したのなら、彼のように無知蒙昧で礼儀自体を知らない奴でない限り、礼儀は守る。当たり前のことなのだ。

アメリカの大統領だって、ヨーロッパの王族には礼はする。天皇にだって礼をする。いやむしろそれは大統領であるからこそ、頭を下げなくてはならないのだ。システム自体を否定することと、オフィシャルの場の礼儀とはまったく別物であることは理解できないのが、悲しいかな庶民。

モノを分かってそうな学者やら識者と言われる人間すら、分かってない奴が多いようで、まったくどうなっているんだ。本来この話は、天皇の政治利用とか、そういう抽象論など、二の次三の次の話である筈だ。

こうして、戦後の開かれた皇室政策は、無知な庶民どころか、ほとんどのメディアと国会議員にまで誤解され、誤ったベクトルの論点が拡散され続けていくのである。