電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

「電脳如是我聞」とは何か

いやあ、ヒョードル、クソ強かったですね。

自分は、リングスの後楽園、ヒョードル日本初登場を、勿論、一般ファンとして、リングサイドで見ていて、ああこいつはモノが違うと…いやもう、老人の昔自慢にしかならないので、止めておくか。

さて、勢いでネット復活してしまい、ブログも始めてしまい、あまつさえ、業界向けの罵詈雑言なども書き始めてしまったわりには、全部、勢いなので、ブログとして何を書いていこうとか、何も考えていなかった。

うーん、アフィリエイトでもやるかね。いやいや、これ結構本気。昔から自分の好きな映画や小説の解説・紹介を丁寧に書いて、アマゾンへのリンクを貼るってのは、やって見たかったのだ。話題の新作やエロに走ることなく、自分がホントに好きなモノだけを丁寧に掘り起こすみたいな感じで。

けどさあ、格闘技系のブログは「嫌儲」が多いんだよね。どんなもんだろ。と、姑息に反応を見る。いいんじゃねーのと思う人は、スターでもつけてね! うむ露骨なスター要求。

そういや、このブログのタイトルの意味、電脳スマックガールの時も、書いたことあるんだけど、それ、そのままログから掘り起こして、貼っておこう(かなりいじったけど)。つまり、こうやって作品解説をして、最後にアマゾンリンクを貼ると。

「電脳如是我聞」と、タイトルを変えようかと思う今日この頃。



「如是我聞(にょぜがもん)」というのは、「私はこう聞いた」というのが字義通りの意味で、釈迦が、諸経を伝える際に「他の経典と混同されたくないので、私がこう言ったと必ずつけるようにね」と弟子阿難に指示し、実際に最初に必ずついているらしい。



が、その元来の意味よりも、「如是我聞」は、太宰治の末期の評論のタイトルとして知られている。小説では、「ヴィヨンの妻」「桜桃」「家庭の幸福」等の珠玉の短編や「人間失格」という中篇を残したその末期の活動において、それらの小説群と対をなし、見事に裏表になっている傑作評論、というか今風にいったらエッセイが「如是我聞」だ。



ここで挙げたタイトルは、すべて「青空文庫」で読めるので、ご興味ある方はどうぞ。出来ればテキスト版をダウンロードして、縦書きで読めるソフトで読んで欲しい。日本語の美しさが引き立つから。



2chに書いている頃、よく「読点が多過ぎる」と指摘されることがあった。その度に、太宰の文章の一部を引いて、ほら自分とそっくりと返していたんだが、そりゃそうだ、自分が真似しているんだもの。手本はいつでも太宰治



自分が若い頃は「太宰治を読む」という行為は、恥ずかしい行為だった。同類の作家に、J・D・サリンジャー(まあ好き)や、ヘルマン・ヘッセ(あんまり憶えてない)がいて、何で恥ずかしいのかといわれたら、それを書き始めると、あまりに長くなるので、ごくごく簡単に書いておけば、高度成長を背景とした時代においては内省的で生産性が低い文章(?)、そういうものを読むことは、恥ずかしい行為とみなされる傾向があるということだろう(かなり強引)。ある時期まで、それは確かにそうだった。



でも、いつの頃からか、太宰を読むことが暗いとか女々しいと言われることは、少なくなった。



全盛期の小泉今日子が、ラジオで『「ライ麦畑でつかまえて」が好き』と言ったら、時代が変わったのだ。内省的な文章を読むことは、「暗くて女々し」くなく、実はオシャレな行為なんだと、小泉今日子が宣言したら、時代が音を立てて変わったんだ。勿論、それはあくまで象徴なんだけれど。



そうやって「おいしい生活」が始まったと。いや時代ずれ過ぎ。



では何故、今自分が「電脳如是我聞」なのか。まあそのあたりまで書いていると、益々長くなってしまうので、極々簡単に。この太宰の「如是我聞」、内容は、当時大家であった志賀直哉に延々ネチネチ絡んでいるだけのエッセイなんですな。もう延々。そりゃ粘着だろってくらい。それだけ。



ただね、それがとにかく美しい。美しければ、すべてよし。そう言いたくなる文章。一部を引いておこう。


 全部、種明しをして書いているつもりであるが、私がこの如是我聞という世間的に言って、明らかに愚挙らしい事を書いて発表しているのは、何も「個人」を攻撃するためではなくて、反キリスト的なものへの戦いなのである。


 彼らは、キリストと言えば、すぐに軽蔑の笑いに似た苦笑をもらし、なんだ、ヤソか、というような、安堵に似たものを感ずるらしいが、私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスという人の、「己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ」という難題一つにかかっていると言ってもいいのである。


 一言で言おう、おまえたちには、苦悩の能力が無いのと同じ程度に、愛する能力に於ても、全く欠如している。おまえたちは、愛撫するかも知れぬが、愛さない。


 おまえたちの持っている道徳は、すべておまえたち自身の、或いはおまえたちの家族の保全、以外に一歩も出ない。


 重ねて問う。世の中から、追い出されてもよし、いのちがけで事を行うは罪なりや。


 私は、自分の利益のために書いているのではないのである。信ぜられないだろうな。


 最後に問う。弱さ、苦悩は罪なりや。

最後の3行の、「罪なりや」と「だろうな」という行末の対比が、特に美しい。と、思う人間はあまり多くないかもしれんが、そこが自分が太宰を手本とする所以。



弱さ、苦悩は罪なりや。