電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

人にとって強さとは何か

自分は昔からネットでは、「上から目線」「偉そう」と言われることが多く、これはもうそんなこと言われたってという話ではあるんだが、反省の気持ちを込め、これを自己批判的に分析してみる。

「上から目線」と言われると「下から目線」と反撃し、「偉そう」と言われると「偉そうなんじゃなく偉いの」というのが、自分の定番の反論だった。ところが、これをマトモというか素直に解釈されることが多く、そのたびに困惑していた。「上から目線」というのは、文章を書く上で断定的な表現を多用すれば、誰でもすぐに「上から目線」になるし、誰が偉いか何が偉いかなどという話は、現実・実務的な役職なり何なりを「偉い」と表現することは可能であっても、内的真実として誰が偉い何が偉いかは、実に恣意的なものであり、つまりは自分で自分のことを「偉い」と表現するのは、お遊びというかギャグでしかないのだが、人に向けて「上から目線」「偉そう」と表現しがちな人に向けて、そんなことを言えば、まさに火に油を注ぐようなものであり、つまり言ってはいけないことであるのは明白で、なのに何故そんなことを言うのか書くのか、それは、意識的に火に油を注ごうとして注いでいるとしか言いようがなく、だって火事が一番面白いんだもの。

この場合、問題となるのは、火事が面白くない、あるいは不愉快だと感じる人がそれなりにいることであり、そんなことを言ったら、「面白さ」などというものは、恣意的価値観の最たるモノで、例えば、過度にブラックだったりシニカルなギャグは、ごく一部には支持されることがあっても、一般的(というか多数決的)には「不謹慎」だったり、「笑えない」だったりするわけで、いくらこちらが、恣意的なのではない絶対的に面白いのだと主張しても、その主張自体が既に恣意的なのであって、結局、面白いか面白くないかなどというものは、その人間の持つ背景、知識だったり教養だったり、生まれや育ちだったりで、決まってくることで、本質的に、人は自分が面白いと思うものを面白いと言うことしか出来ない。

それでも、人間というのは、想像力だったり演技力というモノを持っている。つまり、実は自分が面白いと思っていないことを、思っているかのように書いたり言ったりすることも可能であり、それを出来る人間が、書くことや話すことを、仕事に出来る人間であるんだが、少なくとも、自分は仕事でブログやネットをやっているわけではないので、自分が面白いとは思えないモノを面白いと書くことは、あまり多くない。かと言って、実名を晒してブログをやっいる以上、どうしても自分の社会的立場に発言内容が拘束されることになる。つまり、社会的立場から、自分が実は面白いと思ってないことを、さも面白いかのように書かざるをえないことも、時たまある。

そりゃそうだよねえという話になってしまうのだが、かと言って、社会的立場を優先して無難なことしか書けないなら、そんなモノは書かなくていいのではないかという結論は、自分にとっては絶対的な答えなのだ。

人は、否、自分は何故そうまでしてブログを書くのか。という問題に話を持っていけばそれなりのことも書けるとは思うものの、そちらには振らない。では、どういう方向に振るのかと言えば。

というわけで、こういう思考の流れから何となくタイトルを考えてみたのだけど、果たして繋がるのか! 実はまだ何も考えてなかったりして。