電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

アカ頭巾ちゃん気をつけて

今月の紙プロは、高木三四郎さんが匿名掲示板のことを書いていて、これが面白かった。ああいうもんなんだよね。みんな、わかっちゃいるんだが、あれを著名人なのに、自ら管理したことのある三四郎さんが書くから、面白いんだな。一般人が書いても、そりゃそうだで終わってしまう。

例えば、謹慎の最中もありがたいことに、このブログはコメントが途切れることがなかったのだが、これのIPを見たりすると、実に実に面白いのだ。2ちゃんがシステム的に優れているのは、プロクシからの書き込みを規制する仕組みが出来ていることであり、これにより、IPはIDとしての意味を正しく持つようになる。その意味では、ブログのコメント欄は、普通に開放する限りは自演したい放題であるわけで、だからこそ、自分のように、多少システム的な知識がある人間にとっては、色々面白いことが発見出来る。

ネットは本来ツールなのか、メディアなのか。ネットの草創期にはよくこういう議論があって、まあ現時点の結論としては、どっちもイケるインフラだよということになるとは思うのだが、ネットが情報を得る為のツールとしては、やたら便利なモノであるのは、もう誰も異論はないだろうが、メディアとしてはどうなのか。恐らく、そこで象徴されるべきは、メディアとして、ネットは、人の悪意がとどまることを知らないことを観察出来るということだ。

昨年の末、スマックを辞めた直後、2ちゃんの女子関係のスレに、メモ8が首吊ったという書き込みがあり、心配する人が結構いてびっくりしたことがある。実はアレ、自分で書いたのだ。勿論、そういうことを書いたことは、かなり多くの関係者や知人には、しばらくしてからではあるが報告したんだが、ほとんどの人に不思議がられた。

何でそんなことを書いたのかといえば、簡単に言えば、自分に悪意を向けたからであり、去っていく人間には、悪意が向けられるべきと考えているからであり、基本的に、人に悪意を向ける暇があるなら、自分に悪意を向けてでも、自分の来し方行く末を、よりよく修正したいという人間であり、他人に悪意を向けることは好きではない。

だからこそ、外に向けて、他に向けて、悪意が芽生えた時は、それは自分の意思のチカラで律するべきだと考えるし、それを持て余しそうになる場合は、自分と戦ってでも、モラリスティックに生きるべきだと考えるし、それでも抑えきれない場合は自棄に向う。人にそうせよというのではない、自分が気持ちよく生きる為に、そう生きたいと考えていた。

が、もう、そういうのは、どうでもいいのではないか。自分が気持ちよく生きられない思いを選択することから逃げてはいけないのではないか。義理と人情を秤にかけりゃ義理が重いのだ。元々自分は徹底して人情の人なんだが。

ごく最近、こう考えるようになった。勿論、いつまでも、自分にとって気持ちのよくない生き方をするつもりはない。が、しばらくは、期間限定で、気持ち悪く生きてみようかと思うのだ。アレだね、北斗の拳で、トキがどーんと血の涙を流して、修羅の道に入るみたいな感じ? ありゃアミバの作り話だろって突っ込みはなしね。