電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

さよなら怪傑黒ズッキン

赤頭巾の次は黒頭巾で、これは当然、庄司薫だ。自分くらいの世代では、この作家に影響を受けた人間はかなり多く存在するが、逆に、一冊目くらいは読んだものの、日比谷日比谷って五月蝿いよと反感を持ち(70年代以前の典型エリート高校だ)、好きにならない人間もいたりした(自分の高校は日比谷より数段落ちるものの遠縁みたいな高校だから、比較的、周りには好意的な奴ばかりだった)。その語り口は、相当猛烈甘ったるいものの、やっぱりインテリの上から目線の話なんだよね。ダメな人はダメなわけだ。つまり、そっち側にいるつもり、行くつもりの人間でないと、受け入れられないんだと思う。東大入試が中止になって、あえて慶応に行く親友が出てくるが、そんなところからして偉そうだもの。

んじゃ、自分のように、ニローしてサンリュー大学しか引っ掛からず、挙句チュータイしてシジュー半ばになってまで貧乏している人間が、そっち側なのかと言ったら、そこはメチャクチャ微妙なんだが、知的強者と社会的・経済的強者は、必ずしも一致せず、いやむしろ相反する場合も多いので、それはそれでいいのである。自分がインテリ側の人間だと思えば、それはそうなのだ。

ところが、現在においても、自分が知的強者の側にいるのかといえば(そして人生のある時期だけでも、そちら側にいたのかといえば)、それはまったくそんなことはなく、事実、自分にはそこを目指すことからすら、降りたという自覚があり、理由は色々あるんだが、知的強者になろうとすること、もしくは、あり続けることが面倒くさくなったからで、その結果、楽になるのは、知的強者クラスにおける競争に参加しないで済むことであり、つまり、自分がそっちの側だと思っているから、戦争になれば丸山真男をひっばたけるとか言い出すわけで、別に戦争じゃなくても、ひっぱたけばいいではないか。インテリなんてキチガイかオタクか虚弱体質しかいないんだし。

長島☆自演乙が、初音ミクで入場した時、格闘技専門マスコミがネタ元わからなかったと、各格闘技専門ブログでは、嘲笑っていたが、そんなもん知らなくてもいいだろと思うものの(最新の「やらないか」に至っては益々だ)、格闘技は、見る側からすれば、サブカルチャーとして語られることが事実多いわけで、その程度の目配りは必要だろうという考え方も分からないではない。が、その考えを推し進めていくと、結局、どこまで前提というか先達の作品を批評的に取り込むことが出来るかで、ほとんどの知的営為・芸術的営為の価値は決まってしまうわけで、例えば、格闘技の煽り映像を作る人間なら、エイゼンシュタインくらいは知っているんだろうなとか、プロレスを演出する人間には、スタニスラフスキーくらいは勉強しているんだろうなということになってしまい、結局、キリがないのだ。事実、圧倒的に評判のいい佐藤Dの煽りは、自分には「70年代って何かカッコいいよねー」的な軽さと押し出しを感じることが多く、どうしても好きになれない。煽り映像職人としては、それなりに評価しても、映像作家としては、あまり評価していないということだ。わかってないじゃんというか、ゴダールからやり直せ的な。

と、知的強者の話から、サブカル(というかサブサブカルくらいか)の話に強引にスライドさせたのは、要は、あまりにメインカルチャーが力を失い、インテリの細分化というか、何をもって知的営為とするかの価値基準が、恐らくパンクの登場からしばらくして、ひとつの明確な答えを失ってしまったからで、クラシック音楽や古典絵画にあまり理解のないことに、未だに劣等感を持つ自分のような人間は、もう全部降りて、勝手にやりますよ。的な。と例によって尻切れ。