電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

ロック的な年明け

明けましても、おれはちっともお目出度くはないが、当ブログを見に来てくださる皆様には、いい事がいっぱいありますように。

ダイナマイっ、締めはシュルトさんの三角かあ。いったい何がどうなってんだか。世界の所さんの煽りが、ホフディランだったのがよかった。キツく美味しくないカードを受け続けた、所くんが、去年のおれ的MVPです。しかし、アリスターの115キロって、膨らみ過ぎだと思います。……格闘技ネタはここまで。

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人は「これでいいんだ、このままでいいんだ」と自分に言い聞かせながら進むタイプと「これじゃまるでダメだ、このままじゃダメだ」と言いながら進むタイプの2通りに分かれると思っていて、前者はポジティブで後者はネガティブとか、そんな単純なことではなく、しかも実はその2通りは、考えるという意味では、まるで同じことである場合も多く、それ以外に何も考えないタイプというのがいるのかもしれないけれど、自分は間違いなく、後者のタイプであるにも関わらず、最近は「これじゃダメだ、まるでダメだ、全然ダメだ、けど、まっいっか」の「まっいっか」ばかりが大きくなり過ぎて、何も変わらないということが多かったような気がする。

「まっいっか」こそが、ロック的であるという説があって、まあ、それはわからないことはないものの、それをロックだと言ってしまうと、だらしがなくてもそれがロック、いい加減でもそれがロック、がんばらないのもロックということになってしまい、つまりロックが言い訳となりまくり、それはカッコ悪いだろということなのだが、カッコ悪いことも含めてロックだぜと、何でもかんでもイッツオンリーロックンロール。

去年あたりから、映画と音楽に関しては、10年ぶりくらいに、積極的に自分から新しいモノにぶつかるようにしているのだが、実は、自分の知らない古いモノを掘っているだけで、それは歳をとれば自然と古典に向うようになるなどという大袈裟なことではなく、昔はこずかいだって少ないし、入手するだけで大変だったモノが、今は廉価もしくは無料で手に取ることが出来るからだ。そこに宝があるとわかっているのに、わざわざ、まがいモノである今時のモンなんかを追いかける気はしない。

川本真琴椎名林檎だと、若い(と言うほど若くない)お姉ちゃんを聴いてるばかりではないのだ。いやまあ、昨年末の2週間くらいは、まさに川本真琴しか聴いていなかったのは事実なんだが。

スティーブ・マリオットという死んだロッカーがいて、死んだロッカーはみんないいロッカーなんだが、自分が熱心に音楽を聴いていた20代の頃には、スモール・フェイセズと、ハンブル・パイという彼がいたバンドをそれぞれ1枚か2枚聴いていた程度であり、要は、自分の「ロックをお勉強」の過程で、通り過ぎたバンドでしかなかったのだが、古い映像がいくらでも探せる今、絵で見てみると、いやあこれが実に実にカッコいいのだ。ロックとはこういうことだと言いたくなるくらい。

彼が、ステップを踏みながら、ギターをカッティングするだけで、叫ぶだけで、もう空気が全部ロックになってしまう。

「Itchycoo Park(イーチク・パーク)」

イーチク・パークに来てごらん
きみは、ここで何をするかい?
ぼくは、とっくにハイだよ
きみは、ここで何を感じるかい?
そう、ぼくは、叫ぶのさ
何故涙なんて流したんだろう
そして、きみに伝えようとする
ここでは、すべてがこんなに輝いていることを
すべてがとっても輝いている
すべてがとっても輝いている

超訳メモ8
ラリパッパソングなので、意味正確に取れず多分相当誤訳

では、そのスティーブ・マリオット本人が、存命時に「それはロック的だ」とか「それはロックじゃない」とか、渋谷陽一ですら言わなくなったことを、言っていたかと言えば、そんなことはまったくないわけで、何がロックだとか言っている奴は、どこまで行っても、ロックではないという結論が、今ここで初めて明らかになるわけである。今更そんなことに気がついたのかよ。

つまりだ、自分がロック的に生きようとするならば、例えば、おれがブログを書けば、その瞬間ネットがロック的空間になってしまうとか、そういう状態が実現しない限り、それはなしえないということだ。つまり、イッツ・ブ・ロック。とか、ダジャレをオチにして誤魔化しているうちは、いつまで経っても、全然ロックじゃないのである。