電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

誰もテレビの言うことなんて信じない

数日前に、「猪木アリ戦の真実」的な番組を、テレ朝でやったようで、結構その話題を書いているブロガーが多い(自分は見てない)。テレビでは「あれは実はガチンコだったんです」的な扱いだったようだが、面白いのは、それに対して「本当かなあ、実は違うんじゃないの?」的な疑問というか、もう騙されないぞ的なことを書いている人が多いこと。テレビ様の言うこと、てんで信じてないのである。いや「的」多過ぎで、すいません。

数年前に、柳澤健の「1976年のアントニオ猪木」が出た時は、そうじゃなかった。絶賛するばかりで、内容に疑問を呈した人は、ほとんど見かけなかった。紙メディアに対する妄信は健在というか、リテラシー的に大丈夫なのかねえ。

当時自分は「電脳スマックガール」というブログをやっていて、つまりあの時も今も、一応インサイダーの側に身をおく為、詳細をやる気はまったくない。まったくないが、精一杯書いていたことを、デスマス調なので、全部直したくなるのを押さえて、そのまま、お蔵出ししておく。ブログのタイトルは「電脳スマックガール」でも、当時から「電脳如是我聞」を名乗っていたりして。

「1976年のアントニオ猪木」雑感(2007.4.4)

電脳如是我聞ですから、危ないネタやるわけです。「1976年のアントニオ猪木」の雑感です。著者、柳澤健文藝春秋刊。

評判、いいんですよね、これ。ネットだけじゃなく、あっちこっちでいい書評を見かけます。そして確かに充分面白い。特にルスカとその周辺の人間模様は、情緒的でありながら、論理も失わず、結果として刺激的です。著者の柳澤健という人がプロレスの村の外にいるからこそ出来た、重厚なノンフィクション。

が、いわゆるシュート活字的視点(と書くと、今やタナカさんが専業暴露本ライターである為、かなり語弊があるんですが)から見るとどうなんだろうなあ。あまりに、断定が過ぎないか。ルスカ戦はプロレス、アリ戦、パク・ソンナン戦、ペールワン戦は、シュートと断定してしまっていますが。そう言われてしまうと、元専門家(自称)としては、慌てて眉にツバをつけざるを得ない。勿論、自分が、ここがこう間違っていると細かく指摘出来るわけじゃないんですが。

例えば、ペールワン戦に関してこういう記述があったりします。

『「猪木にはこれ以上行くと折れるという感触があったから、“Ask him! Ask him!”(アクラムにギブアップかと聞いてくれ!)と英語で叫んだ。次の瞬間、嫌な音がした」(新間寿)』

さて、数万規模のスタジアムで「リングの中央であったために、アクラムがロープに逃れるのは不可能」である状況で、果たして、セコンドの新間さんに、アクラムの肩が脱臼する音が聞こえるものなのでしょうか。

とか突っ込みはじめると、いくらでも出来ちゃうんですよ。アリ戦は、既に多くの人間に語られていて異説は色々ありますし、パク・ソンナン戦なんかは、逆に証言者が少な過ぎて、どうもなという感じですし。そもそも、証言者の中心が新間さんで、その語りで事実を構成することに、かなり無理があるというか。だって、新間さんだもの(と、昔からのプロレスファンになら通じる褒め言葉)。

後書きに「本書は、プロレスとはリハーサルのあるショーであるという前提の上で、その前提が崩れた特異点について書かれたものだ」とまとめてあるわけですが。

アリ戦や、一連の異種格闘技戦を、現在の総合格闘技の出発点のひとつと見做すことには、何ら異存はないんです。けどね、やっぱりアントニオ猪木という人は、存在自体が「特異」で「虚実皮膜」な人であるわけで。別に、この本で取り上げられた4戦だけが特異なわけじゃない。

だから、最後の2章(この本で取り上げた4戦から、その後のプロレスから総合への流れをまとめる部分)が、強引かつ弱く感じます。佐山・前田・高田・船木の四氏をごっちゃにして、修斗まで含めたU系に対する評価が異様に低く、かつ掘り下げが浅すぎる(何も書いてないのと一緒なレベル)であることは、分量的なことから、しょうがないにしても。

自分は、日本の総合の草創期において、そこが1番面白いところであると思うので。猪木さんが、思いつきで蒔いた種を、その後の人間が、どう育てたのか。それが4人4様なのであるところ、そしてその4様が、微妙に交差しながら生み出されたダイナミズムこそが、1番面白いところだと思うので。