電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

深層批評宣言

自分は昔からネットをやっている(というか、ネットで書いている)わりには、自分のことを書かない。いや、自分のことは凄く書く。が、自分の生活のことは書かない。好きな本や好きな音楽や好きな映画について書くことはあっても、仕事の進捗とか、職場の人間関係とか、日々何を食べているかとかは書かない。いわゆる日記的な生活の記録を書くことは、ほぼない。

だから、自己顕示欲が強いとか自己主張が強いと言われると、そのたびに考え込む。顕示欲はあるし、主張は強いとは思う。かと言って、それがイチイチ「自己」顕示欲なのか、「自己」主張なのかと言われてしまうと、ううむ、という感じなのだ。

批評が批評として自立する為に。などと大上段から振りかぶるつもりはないのだが、一般的に批評には、自分に引き寄せる批評と、可能な限り客観的であろうとする批評という、二つのベクトルに大別されるわけで、ところが自分は、客観的な批評なんてものは存在しないと思っていて、最初からそちらは目指していない。つまり、自分は何でも自分に引き寄せようとするから、そこに「自分語り」が発生してしまうんだが、かと言って、自分の意識としては、それは批評を作品として成立させる為の材料としての自分でしかないにも関わらず、そこはそうは理解されずに、自分を語りたがっていると解釈されがちだ。

勿論、可能な限り客観的であろうとする立場というのも、批評を広くジャーナリズムの一部と解釈するならば、そういう報道に近いベクトルというのはあってしかるべきだし、自分を棚に上げることでしか発生しない視点というのは、確かにあり得るとは思う。が、自分にとっての基本は、自分にとって面白いかであり、客観を目指しているつもりの批評が、結果として、外に向けて全然開いてないのもよくあることで、それよりボクと踊りませんか。

ネットがここまで当たり前になって、こういう葛藤を経ないまま、書くことに無自覚なまま、妙に客観性を目指して書き始める人間が多い。勿論、自分語りの気持ち悪さを、まるで自覚しないまま書き連ねる人間も同じくらい多いんだが。