電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

世界には概ねラザロやプーがいる

金曜の夜だというのに、しこしこ仕事をしていて、今週は土日もびっちり仕事だ、今晩くらいゆっくり寝ようと思ったら、そういう時に限って疲れ過ぎていて、2時間で眼が覚めてしまう。くそっ、せっかく寝ることを自分に許したのにと思って、代わりに、届いていたけど、見る時間が作れなかった、ジョージ・ロイ・ヒルの「スローターハウス5」を観る。

やはりこれは超傑作だ。冷静な眼で見れば同時期に撮られた「明日に向って撃て」や「スティング」より、出来がいいのではないか。端役まで含めてすべての役者がドンピシャな表情を見せ、カットは緻密に編集され、もうこれ以上はないのではと思う繋ぎ具合。そこに被るグレン・グールドの名曲。音の被せ方、使い方、自分がジョージ・ロイ・ヒルに多大な影響を受けていることを再確認した。

原作がカート・ヴォネガットであるからSFなのである。主人公は時間を超越してしまい、自分の人生のあらゆる時点に、同時に遍在するという話。こういう書き方をするとわかり難いかもしれないが、映画を観るにあたっては、そんなことは気にする必要はない。爺さんとなった主人公のキチガイ親父的回想シーンがフラッシュバックされ、延々繋がっていると理解しても何ら問題ない。

ましてやポストモダン的・ライトノベル的に、「時間を超越する」という設定は、実は今時の若者には分かり易い設定なのではないか。きっと、時代がヴォネガットに追いつき始めているのだ。ライトノベル・ファンでも、特にゲームやアニメと合わせて理屈をこねたがるようなファンは必見だよ。若者にこそ観て欲しい。さらにカルト映画ファンだというなら、この映画を観ていないのはモグリ。今すく観なさい。

第2次世界大戦において、原爆投下の広島以上の死者を出したとされる、ドイツの古都・ドレスデンの空襲という出来事がメインになっていくため、反戦映画的なコピーと共に語られることもあるが、そんなことも、どうでもよろしい。極論してしまえば、戦争はその他多くの悲惨な出来事と等価。心温まる小さな逸話が積み重なるように、悲惨な出来事も積み重なるのである。時は淡々と繰り返し、人は死んでいく。まさにヴォネガット的「そういうものだ」の世界。明るい虚無。だからこそのオプティミズム

ジョージ・ロイ・ヒルは、この映画の10年後に、似たテーマ、似た感触で、これまた傑作の「ガープの世界」を撮っている。ロビン・ウイリアムスの俳優として才能が開花した映画であることもあり、こちらはメジャー扱いされることも多い。しみじみ素敵な映画。

似た感触であるんだが、原作のジョン・アーヴィングは、ヴォネガットとは異なり基本的にはリアリズムの作家であり、SF的な出来事は起きない。が、それだけの違いであり、感触はよく似ている。SF的な設定であることで、メタフィクショナルな批評性が発生するという意味では、この「スローターハウス5」の方が、自分の好みである。勿論「ガープの世界」も、かなり好きな映画なんだが。

この2作、原作も超傑作で、先に読んでも全然構わないと思う。先に読んでしまって、映画を後から観ても、映画が原作に負けていない稀有な例。まあ「ガープの世界」の原作は上下巻で長いけどねえ。

スローターハウス5」ではラザロという人物が、そして「ガープの世界」ではプーという人物が、物語のキーになる。世界には、常に、ラザロやプーが遍在する。だからこそ、世界は虚無であり、ゆえに美しくなる可能性を秘めている。その意味は、この2作をじっくり観て頂ければ、理解できると思う。

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