電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

重層的な非決定

今回の選挙、民主だ自民だという話より、ここで書いたネトウヨの話に加え、これから書く話みたいなことが、普段政治を語らないネット層において、延々語られ続けていること自体が凄く新鮮。

グリフォンさん(id:gryphon)とこから。
「投票に行く・行かない論」補遺。「公に推奨される行為」とは?「選択の自由」とは?

大モトのネタはこちら。
「選挙にはいかない」 「続 選挙にはいかない」

で、たとえば学校で選挙について教えるとき

A/「投票は大切です。棄権(投票に行かない)のはよくないことです」
と教えるべきか
B/「投票は大切です。棄権する、投票に行かないというのも個人の尊い判断・選択であり、尊重しなければいけない権利ですけどね」
と教えるべきか。
わたしは、Bのほうがあらゆる角度から検討しても正論なんだと思うんですけどね。Aのほうが正論だという人は教えてほしいものだ。

Bが正論だというのは、そんなに異存はない。が、A支持のコメントもついていたので、思わすつけた自分のコメントはこれ。

memo8 2009/09/04 15:34
管理する側の正論と管理される側の正論が違っているのは当然で、教育やジャーナリズムがいかにあるべきかという正論がその間で揺れ動くのもまた当然。国力とか国益とかそんなことばっかり考えろと教える教育になるのも如何なものかと。

これですべてという気もするんだが、補足するなら、何が国益かという問題はあるにせよ、国が国の都合を考えるのは当たり前で、個人が個人の都合を優先するのも当たり前。当然、そのふたつは矛盾する。だから「たとえば学校で選挙について教えるとき」という設問の立て方が、おかしいと思う。それは教育システムの問題と絡んでくるし、義務教育がどうあるべきかという問題にも関わってくる。結果として、元々の「投票に行く行かない論」の本質的な問題からずれてしまう。

マスコミは、無条件に、反権力・反体制であってよろしい。よろしいんだが、今のご時世それだと広告取れませんになってしまい、実際には、純粋な反権力・反体制なんて立場は、現時点ですら存在してないと思うし、恐らく加速的な勢いで、マスコミ全体が御用ジャーナリズム化していくと予想するが、これまた本題からずれる。

では、何が本質なのかと言うと、これがまた難しく、少なくとも簡単に言えることがあるとするならば、日本国憲法においては、投票は権利であり、権利である以上、これを放棄する権利もあるのであって、つまり好きにすればよろしいのであって、勿論、勝手に放棄している奴に文句言うのも、好き勝手にすればよろしいのであって、つまり、日本国という法治国家にあっても、人は好きなように生きればいいのである。勿論、好きなように生きるからといって、自分のことだけ考えているとは限らないし、自分のことだけ考えているからといって、他人の為にならないわけでもない。

今回、あっちこっちで圧倒する「行くべき論」の方で、ふたつ典型的な強い主張があるとするならば「一般人が面倒くせーとかを理由に投票に行かないと組織票が勝っちゃうだろ!」と「行かなくてもいいけど、だったら政治に文句言うな!」であるように思うが、前者は「だったらキミが嫌いなその組織の反組織を組織すればいいじゃん、それも自由なんだし」で終わりのような気がするし、後者は「何を根拠にそんなこと言うんだ? 感情論でしかないじゃん」で反論終了な気がする。

「戦争は外交の延長、もしくは一手段」的な暴論が存在してもいいのと同様に、「テロリズムこそ個人の政治参加の最終形態」みたいな異見があってもいいと思うし、色々な意見があっていいのである。ただひとつだけ、自分の中に明確に見えている前提があるとするならば、戸惑い躊躇うことこそ、真に知性的理性的な態度であるということで、恐らくすべての知性的理性的な結論も、戸惑い躊躇うことであるということだ。

ちなみに、自分はもう10年以上、投票に行ってないが、その理由は簡単で、政治的な決定をしないことが、自分の政治的なポリシーであるからだ。おいおい、ミクシィで書いてたことと全然違う理由じゃないかとか言ってはいけない。これぞ重層的な非決定。ほんとかよ。