電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

笑えない理由

ああ、ブックマークがいっぱいついてる人気エントリーに絡むブログに遂になっていってしまうのだろうか、電脳如是我聞。が、しかし、ネタが「ワンピース」ということで、だったら、おれも五月蝿いよということで。

『ONE PIECE』における正義と信念の問題

内容に関しては、特に異存もなく的確であるように思う。が、どうなんだろな「正義と信念」という話なら、ドストエフスキー以来の(いやそれ以前、恐らく神話まで遡る)永遠の文学的テーマであるのも確かだというのが、まずひとつ。その意味で「ワンピース」って新しいのかという疑問はある。宇野常寛という人の『ゼロ年代の想像力』という元ネタ読んでないし、何ともいえないところが多いが。ただ、ひとつだけ、明確に指摘できることはある。

(前略)同作が思想や批評の文脈で重要な作品として位置付けられているようだとの話は、てんで聞かない。複雑な対象を取り扱うことが知的水準の高さを示すわけではないことが常識だとすれば、これは不思議な事態である。

この部分、「デスノート」と比較して、「ワンピースは何故?」という部分なわけだが、これは全然不思議じゃないと思う。単純に「ワンビース」には笑いの要素、つまりギャグが多いからだ。昔からそういうもん。笑いの要素を多く含めば含むほど、思想的価値があろうがなかろうが、そういう方向からは軽視される。筒井康隆が、最初の論争的な文章である「笑いの理由」で、百目鬼恭三郎に執拗に絡んだ時代から、それは何も変わってなくて。だからこそ、若い奴ほど笑いを絶対視したりするような逆転現象も起きる。

作品に対して何らかの意味付けを行う、こういう行為は、批評のフィールドワークというか、常に誰かがやるべき行為であるとは思うし、そこが批評が批評足りえる為に最も必用であることは言うまでもないのだが、作品にとって、笑えるという価値があるならば、そのこと自体が作品にとって最大の栄誉であって、その笑いに対し、笑い以外の側面から意味付けようすると、その批評の独自性はむしろ維持出来ない場合が多い。だって、明らかに笑える方が面白いんだもの。つまり対象作品に批評が負けてしまう。だから、批評は笑いを無視しがち。これは、しょうがないよな。


【付記】

自分が上記「笑いの理由」を読んだのは、「やつあたり文化論」という単行本で、とっくに絶版になっているようだが、アマゾンのマーケットプレイスで見てみると、河出から出ていた単行本も、新潮から出ていた文庫も、最低価格1円で売ってるので、入手は簡単そう。筒井康隆の記念碑的なエッセイでなので、読んでない方は是非どうぞ。

さらに上記「笑いの理由」に匹敵する名エッセイ「知の産業―ある編集者」が入っている、「着想の技術」も絶版のようだ(これは単行本・文庫とも新潮)。ひー切ないねえ。「筒井の小説、どれが好き」的な企画はよくあるけど、「筒井のエッセイ、どれが好き」だったら、間違いなく、この2つを選ぶ。