電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

孤立無援の思想

大盛況でした「デモリッション・ウエスト」。ご来場くださった皆様、ありがとうございました。


可愛いかったキッズ・グラップリング。男の子と女の子の対決で、会場結構湧いてました。レフリーは、本戦のジャッジでもフル回転して頂いたパラエストラ大阪の中山巧さん。

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以下は、この大会がどーのという話ではなく、最近また深く格闘技の世界と関るようになって、色々考えたこと。同じ一人ぼっちでも、旅に出ると、普段と違うことを考える。

このブログを見てもらえばわかる通り、自分は昔から、悪く言えば机上の空論派で理屈先行型で、こういう人間は、書物から物事を学びたがる傾向があり、かつ、経験主義を軽んじがち。事実、経験主義なぞ頭が固くなるばかりだと思うことも多い。

とはいえ、もう四十も半ばを過ぎると、そうも言ってられなく。やはり経験の蓄積は大切で。知らないと、経験してないと、絶対出来ないということが山ほどあって。特に、イベント運営なんかはその最たるもので。最近では、いつの間にか自分も、随分、スキルがついた、経験を重ねたなと思うことが多い。

さっきやってた「天地人」のラス前の回で、直江兼続真田幸村の関係(史実捻じ曲げ過ぎだが、こういう捏造はいいと思う)みたいに、そうして身に付けたスキルや経験を教えて、人を育てたいなあと思うことが多いんだが、中々食えない世界であって、自分のような立場で仕事をしたがる人間自体が、まずは存在しないのであって、教えたくても教わりたがる人間がいない。あれだな、職人の世界の跡取りがいないみたいな感じで。

高橋和巳は、その著書「孤立無援の思想」で、こういう言葉を残している。

どんなに意地をはっても、人はたった独りでは生きてゆけない。だが人の夢や志は誰にも身替わりしてもらうわけにはいかない。他者とともに営む生活と孤立無援の思惟との交差の仕方、定め方、それが思想というものの原点である。さて歩まねばならぬ。

自分が高校生の頃に影響を受けた言葉ではあるものの、今頃になって、もう一度考えてみる。人の夢や志は本当に身替りできないものなのか。最近、そんなことないんじゃないかと思うことある。が、それには、きっと「人の夢や志を身替り」させるスキルや経験が必要なんじゃないかとも。

大した夢や志などない。そんな大した人間ではない。が、背中で見せると、それを見て勝手に育つ子も、またいるんじゃないかとも、思い始めたのは事実であって。

高橋和巳は「思惟」という言葉を使ったが、これは「情熱」とか「生き方」とか、そういう言葉を当てはめてみても、同じなんじゃないか。そう思う。こういうことが、歳を取るとわかってくるわけだ。