電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

ネット幼年期の終わり

最近では、どこそこのブログが炎上したとか、そういうことが話題になることも滅多になくなってきたが、やはりネットで「祭り」といえば、基本は叩きが中心。しかも「ネット」という表現を使いつつも、基本は2ちゃん(というか主にVIP)から、ニコ動に飛び火して、一部それ系のブロガーが反応するレベルであり、非常に内輪の世界で完結しつつある。内輪と言っても、そこに参加しているのは、間違いなく数万単位であり、それが内輪だったら、格闘技イベントなんて、全部内輪と言われてしまうと、そうですね、すいませんとしか言い様がないのだが、それでも、見る側・感じる側のこっちがそう思ってしまう以上、やはり言葉は確実に内に向いつつあると思う。

その意味おいては、昨晩の地上波で「天空の城ラピュタ」の放映とそれに連動したツイッターでの大騒ぎは、実に面白かった。一番盛り上がった瞬間は、勿論「バルス!」だったが、それ以前にも海賊ドーラおば様の「40秒で準備しな!」あたりでも、かなりの盛り上がりで。いやまあ、ドーラが50歳という設定で、自分と3つしか違わないじゃんとショックを受けたことは、ここではこれ以上触れないにせよ。

終了直後に「これほど共通言語になる映画は宮崎駿くらいしかない」的なことを書いて、それは今でもその通りだと思うものの、それだけではないような気がしてきた。

天空の城ラピュタ」における「バルス!」、あれ実は、あの映画最大の突っ込みどころであるわけだ。ええーっ、あの一言で全部ぶっ壊れちゃうのみたいな。実際、ツイッターの祭りの最中でも、この科白に対する突っ込みはあった。が、妙に皆暖かいのだ。突っ込めるというか叩きのニュアンスが若干に乗りつつも、明らかに国民的映画に成長した宮崎駿作品を、受け入れた上で、優しく突っ込んでいるというか。

ツイッターをやっていて驚くのは、意外なほど、匿名性が低いということだ。登録に必要なのは、メアドくらいで、システムとしての匿名性は、異様に高い筈なのに、匿名であることを前提とした書き込みは驚くほど少ない。ネットID制は、ツイッターにおいて完成したのではないか思ってしまうくらい。

ちなみに「匿名性」という言葉を簡単に説明しておくと、そのものずばりの「匿名」ではない。匿名「性」とすることで、そのメンタリーティまで含めて、程度を抽象的に計る表現として、自分は使っていることに注意。

例えば、2ちゃんなどのシステムだと、叩かれる側は叩かれ損であることが前提にあるわけだ。大昔はそれを逆手にとって随分遊んだものだが、それも個人の範疇であればこそで、組織を背負うと個人の書き込みスキルだけではコントロールできず、さすがに厳しい。これ経験談。つまり、匿名性の高い奴には、リアルを背負った側、つまり匿名性の低い奴は勝てないように出来ているわけだ。

ところが、ツイッターは叩く側も、匿名性が低いからあまり得をしない。というか、叩きが目立たないシステムというか。いわゆる2ちゃん的な叩きはゼロではないにせよ、匿名性の低さにより、それは微妙に笑いに転化されることが多く、つまり、ギスギスした叩き一辺倒の、陰湿なイジメのような方向に、あまり走らない傾向がある。ギスギスしたことばかり書いていたら、ブロックされて終わりなのだ。

ブログは、所詮、主のエントリーと従のコメントにより成り立っている為、トラックバックなどを通して、ブログ対ブログのコミュニケーションにまで拡大されない限り、やはり匿名の側が得する、というか有利になるように出来ている。ツイッターは厳密な意味でのコメント/レスというのは存在せず、ある呟きに対するコメント/レスは、コメント/レスの形式をもっていても、それはその呟き手にしてみれば、主でもあるわけだ。

昨日のラピュタ祭りは、まるで、タイトルにしたクラークの名作SFのラストのような、ユングの唱えた集合無意識のような、そんな幻想を抱かせるに充分な現象だった。いやいやSFの話でもオカルトの話でもない。それがネットというツール/メディアの存在を通して、非オカルト的なリアルとして、感じられたことが面白かったのだ。少なくとも、ネットは、ツイッターは、まだ遊べる。それを実感させるに充分な「祭り」だった。