電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

師がいないので走れない

いつも何かしらやりたい事、やろうとしてる事があって、ああ暇だ、暇潰しがしたいと思ったことがほとんどない。例えば、外出先で、中途半端に空き時間が出来てしまい、その時間内で出来ることが限られていて、時間を持て余すことは希にあるものの、ここ数年は基本は引篭もっているわけで、やることは、ネットとかネットとかネットとか色々ある。

ブログを毎日更新すると決めても、書くネタに困るということもない。書こうと思っていることは多く、書く時間が足りないことはもっと多く、必然的に、メモ書きというかレジュメはどんどん貯まっていくものの、仕上げる時間がない。などと書くと、たまに羨ましがられることがあるんだが、なあに、本当に書きたいことなど、ひとつもない。何かを書きたいという欲はあっても、本当に書きたいことなど何もないのだ。

自分の場合の出発点は、いつもここであって、それは、筒井康隆を始めとする(自分の場合、この人がトップに来るが、最近再評価の機運が高い星新一だったり、小松左京だったり、あるいは平井和正眉村卓半村良であってもいいんだが)、あの日本SF草創期の巨人達に憧れた中学生の頃から変わらず、いわゆる純文学を読み込むようになった高校生の頃になっても、その思いは大して変わらなかったし、ごく希に、作品の形で残したいようなことがあったとしても、それは、太宰治やカード・ヴォネガット高橋源一郎が、とっくに書いてしまっている。

考えてみれば、自分には固有の師匠と呼べるような人間はいない。普通に社会で生きていれば、これは珍しくも何ともないことだとも思うが、少し特殊なことがあるとするならば、そうやって、常に手本は書の中にあったことだ。だから、書くという行為はいつでも自分にとって大切なことであり続けた。その意味で、インターネットの出現は、まさに自分の生活と人生において最も重要な出来事だった。これで、やっと本気で書ける。いつでも書ける。

ところが、ネットと深く付き合えば付き合うほど、書けば書くほど、本質的なところで、自分は書くことから遠ざかっていく。書きたいことなど何もないけれど、自分が、自分だけが書くべきことは少しはあった筈なのに、それは状況や立場が生むことではなく、自分の魂にささった棘の表出であるべきなのに、いつも状況や立場に流され、書きやすいこと、書けること、書いたら楽しまれるだろうこと、そんなことばかり書いている。

本来あるべき自分と、今ある自分との乖離。若い頃に感じたその思いに、未だに苛まれながら、今日もこうして生活に追われて、1日をやり過ごす。けれど、いつかきっと、ここではないどこかで、こんな文章ではない何かを、書くことが出来るに決まっている。