電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

終わりなき日常を生きない

ソラニン」を観た。映画自体の感想は、ツイッターで呟いたのでそちらで。

ツイッターでも端緒だけは書いたが、パンフに宮台真司が寄稿していて、この文章が気に入らない。簡単に要約すれば、まずは「ソラニン」に性愛(つまりセックス)の模写が少ないことに触れ、「かつて性愛はもっと強力なコクーン(繭)だった。70年代後半に大学生になった僕も性愛で繭ごもりした」のに、「『ソラニン』には性愛がもはや繭にならない現実がある」と続く。そしてこの映画/マンガ原作が描くのは「バンドが性愛の繭をいわばバックアップしてくれる」のだと。

まあ、この論旨には取り立てて異論はない。そういう現実も多分あるんだろう。自分には、こういう部分を理解出来るほど若いバンドマンとの付き合いがないから、よくわからない。

自分は今までの人生において、取り立ててモテまくったこともなく、かと言って、まったくモテなかったわけでもなく、モテということに関して、多分偏差値50くらいであって(すいません見栄張って少し上に補正しました)、どこにでもいる人間だと思うが、恐らくそういう自分を、この宮台の文章が苛立たせるのは、意識的に、性愛偏差値平均以下を挑発しているのか、どこに向けられて書かれているのか、さっぱりわからないことだ。

宮台はセックスを「年に500回以上」「公園や屋上や図書館でもした」そうだ。よかったですね、としか言いようがない。若い時期に、性愛が繭として機能するのは、確かにその通りだとは思うものの、宮台が「ラブホのサービスタイムを朝10時から夕方5時まで使って」セックスしてたからと言って、それは、いわゆる今時の草食系には何の挑発にも啓蒙にもならないわけで。

でね、こういう批評が成り立つのは、それが圧倒的に出来がよい場合であるんだよね。ところが、この文章には、セックス自慢以外でピンと来る部分がないのが問題であって。この出来の悪い批評が、「ソラニン」の劇構造を徹底的に批判しているというのなら、つまり、パンフの文章なので表立ってボロクソには書けないが、性愛の代わりにバンドや仲間をもってきても、やっぱり繭は繭なんだぜ、新しくも何ともねえよ、おれは昔から「終わりなき日常を生きろ」と言っていたという批評ならば、それは、少しだけ理解出来るんだが。