銀の匙は読んでない
さてさて、いよいよ「iPad」発売で、色々話題が出ているわけだが、やはりこのマシン、一番使われるのは、リビングかトイレということらしい。当初噂であったキンドル対抗マシンからまったく別次元に行ってしまっているということで、ファーストインプレッションで「なんだやっぱり単なるキンドル対抗マシンじゃないか」と評した自分の不明を恥じるばかりである(その時書いた、縦横の比率は未だに謎なんだが)。
日本発売に合わせて、アップル株の時価総額がマイクロソフトを超えたなんて話が出ていて、いやあ煽りますなあという感じだ。
ソフトに限らず、店頭でマックの陳列を眺めてから、続いてPCマシンのコーナーを眺めてみると、その外見のヤボったさに愕然とするほどであり、だからと言って、アップルがどうしてそこまでコンセプチャルで美しいマシンを出せるのかといえば、それはもう閉じているからであり、iPhoneもiPadも、その意味ではやはりマックなマシンであることは確かで、これを技術的側面から考えて、それで大丈夫なのかという気はする。
つまり、閉じ方と開き方の匙加減。これが上手くいっているのが、iPhoneとiPadで、かと言って、そのバランスが閉じる方向に向き過ぎのMacOSのシェアが、拡大するわけじゃないのだ。
と、面白くも何ともない結論を導きだしたのは、実は世の中何でも匙加減だよなあということを書きたかったから。偏った方向に突進した方が、圧倒的にカッコいい場合が多い。けれど、問題はその開き方で、たとえばアーティスティックなモノであれば、それは恐らく微妙な妥協となって現れるだろうし、プロダクトデザインであれば、コストとの戦いだろう。で、その匙加減の大方針を決めるところまでは大して難しくないんだよな。それを現実に即して実行・実践していくのが、一番難しいところ。色々考えることは多い。