電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

夢の文化的影響について考える

というわけで、昨日は「DREAM.14」観てきた。階級ネタを散々書いたこともあり。個々のリアルタイムな感想は、結構画像を散りばめながら、ツイッターで呟いたのでこちらを。

偶然なんだけど、買えた席が凄くよかった(これもツイッターに画像あり)。やっぱね、格闘技にしても映画にしても、自分は基本一人で行く人なんで、狭い席とかで、隣の人と肘触れ合う感じなのは、あんまり好きでない。トイレとか煙草とかでも、すいませんすいませんちょっとと言いまくって立ち上がるのが苦痛で。ところが、今回はたまたま完全な独り席で。これはうれしかったなあ。席見て買えるなら、いつも選びたいような席。こういうのって、自分の懐を痛めないと実感出来ない。

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今は、端境期。そんな気がして、これは観ておこうという気持ちが強く。結果としても、「We Love Ring」という煽りと、ケージを破壊するパフォーマンス付きで入場した桜庭選手が、ほっぺた赤い、若いハレックに負け、マッハ選手もいいとこなし。だから、この2戦に、そういう象徴的な意味付けをすることも、確かに可能な大会だった。

それでも、フェザー周辺では、大沢選手、宮田選手、ウィッキー選手と、特に世代交代が起きたという感じではなく。つまり、軽い階級では淡々とサバイバルゲームが続いていて。高谷選手の快勝といい。

端境期と言っても、変わるべきは選手ではなく、恐らくフレームの方で。選手はいつの時代でも、コツコツと上を目指し、強くなろうとする。それは変わらない。当たり前のことなんだが。

勿論、こんな言い方は出来る。勝った選手は、修斗やケージフォースを経て、ここに上がっている選手が多く。つまり、kamipro、いやジャン斉藤編集長曰くの「文化的影響がそんなにない」ところから生まれてきた選手であり。「文化的影響がそんなにない」とは、最新号の菊池先生のインタビューで、斉藤編集長がケージフォースに向けて言った言葉だ。

これまでもそうだったように、これからも、間違いなく、そういう「文化的影響がそんなにない」ところが、選手を生み育て、メジャーはカタチ作られていく。そこに目をつむっていては、格闘技の何を語れるのかという話。見えてない奴は、どんどん本質を見逃していく。

だから、今日は久々に修斗も観てこようかなと思う。アリーナ席しか残ってなさそうなのが、チト嫌な感じなんだけど。まあ、あまり観やすそうではないJCBのアリーナを体験しておくのも一度くらいはいいかなと。なので今日は、隣の人と肘触れ合わざるを得ない予感。まあ、格闘技の会場で、肘触れ合って、袖触れ合って、何か縁が生まれたことは、今のところないんだが、それはおれの個人的な生理の話。