電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

自虐的な責任の取り方

何故選挙に行かないかなんて、アホなことは書いても、基本的に政治については、ほとんど何も書かない。政治でなくても、あまり詳しくないことを、中途半端に書いて、結果いい加減な内容にしたくないというのが一番大きい(勿論、知らないことを知らないままネタにする方法はなくはない)んだが、繰り返し書いているように、政治に関して興味がないわけでない(が、ニュースを全然チェックしてないので、知らないことばかりでもある)。

が、今日のネタは政治というより、人の責任に関しての文章。千葉景子法相がサインして死刑が執行された件について。いや正確に言えば、執行を見たと言った件についてだ。

死刑制度に関しては、自分には意見はない。ないという言うより、どちらにも決められない。よく日本人は自分の意見を持たないからいけない、欧米的に自分の意見をハッキリさせろという言い方を見かけるが、自分はこの意見に与しない。単刀直入に書けば、わからない事、決められない事を、強引に決めることは、真に理知的な態度ではないと確信しているからだ。わからない事はわからないまま、迷うこと、考えることこそが、理性であり知性であると思う。

なので、死刑制度自体の可否は、ここでは触れない。問題は、死刑制度に反対している大臣が、落選しながら、9月までという期間付きで続投していること、ここまで執行していなかった死刑に、遂にサインをしたこと、それが信念に反して圧力に押されて的な報道のされ方をしていること、加えて、その死刑を見守ったこと。

自分が入れた情報はこれだけであって、これだけから、自分の思いを書く。

信念に反する死刑を執行するなら、いっそのこと、それを見守るというのは、ひとつの重要な責任の取り方だと考える。死刑なんて誰も見たくない(いや、だからこそ、誰もが見たがるモノかもしれない)。しかも、自分の指示により人間が死ぬわけだ。見たくない筈だ(ここで人が死ぬのを見ると性的快感を覚える人間なぞも、世の中にはいるらしいので、この法相がそうでないということは仮定させて頂く)。

この大臣の顔すらよくわかってない。わかってないし、死刑制度云々に大きな興味があるわけでもない。が、この話聞いて、へえ、大したもんじゃんと思ったことは確かだ。少なくとも、こういう自虐的な責任の取り方を、自分は嫌いでないし評価する。繰り返すが、この大臣の顔も知らないけどね。