電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

お前をおちょくり隊

よく自分のネットの文章に対して、そんなに怒らないでもという指摘を受けることがあるんだが、これが不思議でならない。怒ったふりをすることはたまにあるし、他人を罵倒すれば、もう「この人は怒っている」と解釈されるということなんだと自分で思おうとするものの、怒ったふりすらしていないだけではなく、怒っていると思われないように書いたつもりの文章で、それでも怒っていると思われると、只管ううむと唸るしかない。勿論、自分の文章力のなさというのが、一番なんだろうが、よし、この文章は練った、寝かして推敲もした、大丈夫だろうと判断した文章ですら、そういうことが多々発生する。

が、それはまだいい。別に怒っていると思われてもいい、そう思われてしまうリスクを覚悟の上で書いている部分も大きい。

一番困ってしまうのは、凄く好意的に受け止めて頂いているにも関わらず、明らかに誤読されることだ。いやそれ違います、こういう意味なんですよと指摘させて頂くこともあるが、褒めて頂いた部分自体が致命的な誤読だったりすると、もうどうしようもない。お礼の言葉を述べて、内容には触れずスルーしかない。

勿論、誤読するのは読み手の自由なのだ。そういう主張も書いてきた。誤読が誤読を呼び憎まれたりすることがあっても、それはしょうがない(が、憎まれるようなケースは誤読されるというより、ハナからほとんど読んでない、読もうとしていないケースの方が圧倒的に多い気がする)。けれど、好意的に誤読されると厳しい。ああこの人は今に「前と違うことを言ってる、ふざけんな」とか言い出すだろうな、自分に向けられた好意が憎悪に反転するだろうなと、関係の破滅の予兆を感じながら、褒められ続けたりする。好意が反転して憎悪に転換すると、最初から憎まれているより、さらに厳しい。そして実際に反転して、溜息をつく。

しょうがないよな。そういうこともあるよな。としか言いようがない。

誤解のないよう補足しておけば、ここまでの文章、すべてネットのやり取りの結果を書いている。が、しょうがないよなと思ってしまうのには、ネットでのやり取りなど関係ない、リアルのやり取りだって、そういうことはあるわけだ。言葉が足りないまま、何となく合意したとか賛意を受けたとか勘違いをすることもあれば、控え目に礼儀正しく反意を表明したつもりが、まったく伝わってないとか、そんな事はしょっちゅうある。少しでも誤解を与えないように、丁寧に丁寧に説明しようとすると、クドいといわれたりする。

だったら、もう他人がどう思おうが勝手、もっとすべてを割り切って考えた方が楽だろうという結論になる。そうやって、思わず分かり難く書いたり、誤解しやすいような書き方をしたりする。ダメじゃん逆効果じゃんと言われても止まらない。そういう性格なんである。

自分は四十も半ばを過ぎてなお、丘の上から白馬に乗ったお姫様が、ぱっからぱっから駆け下りてきて、自分を迎えに来て、自分のすべてを理解してくれると確信していて、勿論、かなりの可能性でそんなことは有り得ないとも、さすがにわかっていて、けれど、それは単に確率の問題だと思っていて、大体だな、私は貴方のことを分かってますなんて言う人間がいたら、ふざけんじゃねえ、お前なんかに分かるわけねえだろと蹴飛ばすことは必定、つまり、自分で確率をさらに下げた挙句、こんなタイトルをつけた文章を書いている。

頼むから、誰か早く殺してくれ。まだ死にたくないとミジメに泣き叫びながら、背中に逃げ傷いっぱい作って、後ろ向きに死にます。