電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

世界は元々こうだった

ある時期まで、真っ当なことを丁寧に書いていれば、それだけで説得力を持つと考えていたことがあって、今でも、そうあって欲しいとは思っているんだが、世の中の大半の人は、人の文章を読む前にその人の肩書きや立場を見て、そうして、それから文章の中身をちらっと眺めるだけだ。

例えば、自分のテリトリーである格闘技の事で、好き嫌いとか価値観の問題ではなく、正誤の問題というか、絶対的に正しい基礎教養的なことを、当たり前に書いてすら、所詮マイナー団体のスタッフごときの戯言扱いされることが多いのを、特にツイッターの興隆以降、改めて気付かされることになった。何を今更当たり前の事をと言われてしまうかもしれないが、ブログだけ書いて、自分に好意的な人の賛意ばかりを受けていると、ついつい忘れがちの事で。

この意味でも、自分には「人気者になる」必要が確かにあったわけだが、それにすら失敗した現時点では、もう何もかも面倒くさくなるというか、何を書いても無駄であるという徒労感ばかりが増してしまう。

さらに当たり前の話なんだが、ある言論に対して、それを正しいか正しくないかを判断する為には、そのジャンルに対する基礎教養がどうしたって必要なわけで、そういう手順をすっ飛ばしては何も判断できないのは常識の範疇にも係わらず、そこが常識として通らない。

世界は既に常識を存在させなくなりつつある。勿論、それは昔から実はそうだったわけだ。それぞれが抱える常識(と判断するモノ)が、確実にズレているにも係わらず、そのズレを認識する手段がなかっただけなのだ。ところが、確実にズレが認識されてしまった以上、これからは何をするにせよ、ズレていることを前提にせざるを得ないわけだが、そんなことを考えたこそすらない人の方が多いわけで、だったらどうすりゃいいのよという話になって、何だか、十七の頃に全部が苦しくなって、すべてを投げ捨てたくなったような閉塞感と絶望感を、もう一度本気で感じてみたりする今日この頃。