電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

リアルなものはあらずや?

グリフォンさん(id:gryphon)のところのコメント欄に書き込んでいた、女子総合関連のネッターとしては、その論理のキレっぷりに昔から定評があったトロピカルさんのテレビ論が、あまりに素晴らしかったので、それを「詩」としか評価出来ないグリフォンさんのブログに置きっ放ししておくのは、もったいなく、ここに全文転載しておく。

勿論、これは「詩」ではなく「叫び」に近い。ちゃんと読めば、そこにある論理にも気付くことが出来る筈だ。テレビ論ではなく、マスコミ論として読み替えることも可能だろう。グリフォンさん、これを「詩」としか評価出来ないんだとすると、本格的に感性に問題があるんではあるまいかと警告しておく。

どこまで行っても、メディアは本質的な意味で、リアルの代替にはなり得ないという話だ。だからこそ、メディアは、メディアとしての輝きを増す場合も、時にあるのも当たり前の話。面白いのは、いわゆる既存のメディアより、ヴァーチャルが売り物だった筈のネットが、リアルとリアルと繋げる可能性が高いということ。うん、面白い。

s_tropical 2010/10/04 02:55

「テレビ」ってのは、

そもそも「television」で、

すなわち、むかしむかし電波を受信して映像と音声を出す箱が生み出されたその時代において、

それが持つ最大の存在意義とゆーのは、

「tele(遠く)」を「vision(見る)」ことだったわけで。



例えばもし片田舎に生まれていたら、

一生のうちにせいぜい半径5kmくらいしか物理的に「見られ」なかったものが、

「television」が生まれたことによって、

東京やアメリカやブラジルや宇宙や海底や細胞の中や空想の世界や人の頭ん中や、

そんなあらゆる「遠く」を「見る」ことが可能になった。

それこそがテレビの存在意義であり、

そんなテレビの出現によって、世界は急速に「近く」なった。



しかし、

世界中があまりに「近く」なったことで、

逆に、本来テレビが見せるべきであった「遠く」が、世の中にどんどん無くなっていってしまう。



そこで、力を持つよーになったテレビは、

カメラの前に「遠く」を創り出すことを始める。

はじめはそれなりの後ろめたさもあったのかもしれないが、

やがてそれが常体化するころには、どんどん鈍感になってゆき、

「遠く」を創ることになんのためらいも持たなくなる。



やがて「inter(相互的)」に結びつけられた「net(ネットワーク)」が出現し、

「遠く」とダイレクトに結びつけられることが可能になった時代において、

今の「television」が見せている「tele(遠く)」が、

作り物で実際とはかけ離れたものであることが、明らかになる。



いま、

「television」とゆーものを、

少しでも意識的に捉えようとするならば、

それは、本来が持つ「tele(遠く)」を「vision(見る)」という意義を、

もう一度見つめ直す以外にないはず。



「ライブよりテレビが上」

とゆー感性があることは否定しないが、

それはやはり一昔前の鈍感化したものであって、

いま、少しでも意識的にtelevisionの意味を問うている人であれば、

リアルな「tele(遠く)」が存在することの大切さを、何よりも強く感じているはずだと思う。