電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

ワンピース本格批評(の序の序くらい)

ここのところ寝込んでいたりして、寝込むと言っても一日中布団に入っているわけではなく、数時間ごとに起きてはメールをチェックしたり、やらなくちゃいけない仕事に手をつけてみたり、そして大体集中力不足で断念してまた布団にもぐり込んだりするわけだが、そうやって起きている時間で一番やっていることと言えば、ワンピースを読み直すか、ワンピース関連の掲示板やら何やらをネットで漁る。五十近くなって、高々少年マンガにこんなにハマることになるとは思ってもいなかったが、そうやって色々ネットをウロウロしてみると、これほど大人に売れているマンガであるにも関わらず、あまり真っ当に語られてないことに気付く。

いやいや、これは何もワンピースについてだけではないのだ。マンガというジャンル自体にそういう傾向があるような気がするし、映画なんかでもそういうことが多い。数多の名作の「情報」は溢れていても、「批評」「評論」は驚くほど少ない。何でかなと思う。これは自分の感覚的なモノなのかもしれないが、小説に対する「批評」や「評論」は、そこそこ見かけるし、何故か音楽もちゃんと語られる(語ろうとしている)のを見かけることが多い。

そんなことはないというご意見もあるかもしれない。自分が単に「情報」でしかないと判断してしまうものが、人にはよっては「批評」に読めることもあるだろうし、何より、「批評」と「感想」の違いに自分は厳し過ぎるのかもしれない。

映画でも「感想」は結構見かける。面白かった、つまらなかった、そうして点数をつけてみたり。そういうのはいくらでも見かける。しかし、それは「批評」ではない。そういう意味ではマンガに関しても「感想」はいくらでもあるともいえる。まあマンガの場合「感想」というレベルにも届かないものが多いんだが。

自分がもし本当にそういう真っ当な「批評」を読みたいと思っていて、その読みたいものが存在しないのなら、自分で語ってみればいい。勿論、それはそうなんだが、ワンピースの場合、ここまで物語が大きくなっていることもあり、中々難しい行為であることも確かだ。

例えば、ワンピース最新の60巻。細部を語ることはいくらでも出来る。ルフィの幼年時代の回想で、義兄であるサボの船出とその挫折の模写の後、ルフィがトカゲ(?)や虫を戦わせて遊んでいるカットが2箇所ある。この2カットが異様に自分の心を捉える。何回も見直してしまうほどに。

 
テクニック的にいえば、ひとつ目のカットから回想の中でさらにダダンの回想がシンクロし、そこから次のシーンに移る時にふたつ目のカットが使われる、つまり場面転換のちょっとした技術と片付けてしまうことも出来るんだが、そのテクが、何故自分に取ってこんなにも魅力的に見えるのか、考えてもよくわからない。何だかいいよねと、それこそ「感想」しか書きようがなく。

で、恐らくこういうことなら、どんなマンガにだって書けるのだ。これでは批評にならない。問題はここから先。技術批評の方向に向かうなら、ここから多くの作品を列挙しながら、帰納演繹し、場面転換のテクについて、何らかの結論を導くことが可能かもしれない。が、自分はそういうモノはあまり欲していない。何故、自分がこの2カットに異様に引き付けられるか、自分の内部を掘り起こしていく作業を作品との関連において行うことこそが批評となる。

うーむ難しいよな、やっぱり。夏休みの宿題にしよう。