電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

数量化・抽象化を柔術を例にして考える

この数量化・抽象化と言葉を出すだけで、ああ面倒くさい難しそう算数苦手と脱落する人は多いと思うんだが、ここが面白いんだ。今から読み直しても、この回から数回が一番刺激的で面白い。そう思ってくれる人は少数派かもしれないが、だからこそ選ばれしエリート様だということにしましょう。わかった奴が偉いという。わからない奴は頭が悪くてダメな奴。そうだそうと決まった。

前提としては、今までの流れを読んでないと、どんなに天才的な頭脳を持っている方でも、さっぱり分からないと思うので、そういう方々は右上の「ジャッジを考えると競技がみえる」をクリックして最初からどうぞ。

「ジャッジを考える8」 2006.08.24


1)判定なし(ドローとなる)
2)全体での判定
3)ラウンド毎のポイント制
4)ある有効な状態にポイントが与えられるポイント制


前回、2)や3)のジャッジの方法では、結局、曖昧さは排除できないことを、書きました。


そこで、いよいよ競技化の最終形態、4)の登場です。


誰もが、ルールの概略を知っている柔道を、例にとって話を進めようかと思っていたんですが、どうも例としては、あまりウマくないので(何故ウマくないかは、何回か後で少し触れます)、あえて、ブラジリアン柔術を例にとって、話を進めてみようかと思います。


ブラジリアン柔術において、与えられるポイントは、以下の通りです。


テイクダウン:2ポイント
・リバーサル:2ポイント
・ニーオンザベリー:2ポイント
・パスガード:3ポイント
・マウント:4ポイント
・バック:4ポイント


それぞれのポイント、例えばニーオンザベリーが、どういう状態を表すのか、そこまで説明していると、非常に長くなってしまうので、それはやりません(が、そのキワの判定で揉めるのも(*1)、重要な問題なので、これまた何回か後に取り上げます)。例えば、柔術や総合をまったく知らない人でも理解できるのは、上記柔術のポイントで言えば、テイクダウンでしょうか。要は相手を倒すことですね。とにかく、そういう風に「ある状態」になることに対し、ポイントが与えられるのです(*2)。


さて、ブラジリアン柔術の場合、元々のゴールはどこにあるのでしょうか。


相手に、まいったを言わせることです。つまり、関節技であったり、締めであったりで、ギブアップさせることです。そうなれば、試合は終わります。そこがゴールなんですが、常にそういう1本の勝負がつくわけではない。その時の判定基準として、上記のポイント制を採用しています。


本来の柔術の概念からして、このポイント制は、よくないよという声も、なくはないわけです。


例えば、いわゆるエリオ系(アメリカに渡った、グレイシーの直系の一族ですね)は、独自のポイント基準を採用した、オリジナルなルールを試行錯誤してたりしますし、判定などせず、どっちが1本取るまで続けるのが、本来の柔術だろうという論法もありますし、そのそれぞれが、それなりに説得力を持っています。柔術の競技的側面より、武道的側面を強調する考え方というか。


では、柔術とは別競技ではありますが、極めて隣接した分野として、盛り上がりつつある、各種グラップリング競技はどうでしょうか。


先日、スマックガールでは、上記のブラジリアン柔術のポイント制と、ほぼニアイコールである「Giグラップリングルール」を採用して大会を開きました。が、それ以前は、SGGルール(SmackGirl Grappling rule)として、打撃ありの総合ルールと同様に、2)の全体でえいやっ判定をやってました。また、恐らく国内では最初のグラップリングのプロ大会であった、GCMの「コテンダーズ」は、3)の形式の判定でした。


つまり、ことグラップリングに限定するとしても、ジャッジは、自分が分類した1)〜4)のいずれの形態も取ることが可能なわけです。


が、ブラジリアン柔術は、上記のポイント制をとっている。


1本を取るをことが目的である柔術の概念から、1本に至る途中のある状態を抽象・抽出し、その状態になることを、数量換算しているわけです。


これによって、何が可能になるのでしょうか?


色々あります。ジャッジする側から見ると、曖昧さの排除、主観の排除、検証のしやすさ、そんなところでしょうか。加えて、単なる観客からすれば判りにくいこのポイント制は、やる側、つまり競技者の側からすると、やりやすさ、参加しやすさに繋がるんですね。ここがかなり重要なところで。


簡単かつ強引に要約すれば、スマックみたいに「1本を狙う積極性」とかで、えいやっで判定されるんじゃ、やる側は、一体何をやったらいいか判らなくなってしまうんです。特に、初心者は。


例えば、相手をパスガードできるような技術を学ぶ。例えば、相手をリバーサルできるような技術を学ぶ。それを繰り返し繰り返し練習して、自分のモノにしていく。


そうやって、ひとつひとつ積み上げた選手達を競わせる場、学んだ技術を試せる場として、初心者同士の大会も簡単に開けるようにしてこそ、競技が競技として、成立する為の重要な要素なんですね(*3)。その為に、最も必要なのが、このポイント制なわけです。


では、それが競技化の最終形態に至る為に必要ならば、何故、ボクシングや総合格闘技はそうしないのでしょうか? 逆にいえば、4)の形態を取ることで、何か弊害があるのでしょうか?


次回はそれについて考えてみようと思います。

*1:柔道でいえば、今のは「一本」か「技あり」、どっちだといういうような判定、つまりそのポイントが入ったどうかの判定を、ここでは「キワの判定」と言っている。

*2:ブラジリアン柔術をよく知らなくとも、このブログを読みに来て頂けるような方々なら、マウントやバックもイメージとしては分かり易いとは思うものの、勿論、ポイントを取るには、取る側の足の位置はここにあってとか、細かい状態の規定はあるわけだ。

*3:そうして底辺を広げていかないと、競技は競技であり続けることを維持出来ない。また、底辺の拡大と頂点を高くすることは、両輪であって、どちらを怠っても選手人口は拡大しない。格闘技ファンの多くは、プロ興行のみを観ている人達なので、この常識を、残念ながら多くの人間が理解していない。1人の魔裟斗がいれば底辺も拡大するのかといえば、それだけでは、決して充分ではない。魔裟斗に憧れて、魔裟斗になりたいと思って、何かを始めたなら、初心者が中級者・上級者(そして場合によってはプロ)と成長することを促進するシステムこそが重要だ。