電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

なんでジャッジは何人もいるの?

実はこの連載、この辺りから、急激に尻つぼみになっていくのである。今回のはいい。丁度いいマトメになっている。が、現状の総合や周辺格闘技に対する分析が一通り終わって、分析しながら、競技化とは何ぞやということも、イチイチ書いてしまっている為、それ以上に特に個人的な主張を書くことが、何だか余計なものであるように思えたというのもある。

当時は、第2部として、興行性の話をやっていくつもりだったものの、それはスマックガールのルールと将来の展望について触れるものとなってしまい、総合格闘技全体を考えるものにはならなかった。自分の当時の立場もあったし、書き手としての力不足もある。

この回のあと、当時の連載では何回かの落穂拾いがあるので、それは次回に簡単にまとめるとして、丁度、大問題となっている大相撲の八百長話の件とも絡め、数回使って、何故、総合格闘技は競技化すべきなのか、そして、それはただ競技化すればいいのかという話を考えてみたいと思っている。

もっとも、今日の最後の方に、ほとんど書いてしまったとも言えるんだが。

ジャッジを考える12 2006.09.06


さて、いよいよ佳境です。と前回書いてから、随分と引っ張ってしまったんですが、実はウマいオチが見つからないんですね。こういう文章書きながら、オチをつけたくなってしまうのが悪い癖というか。


オチぃ? そんなもんいるか! と言えるような強い心が欲しい。嗚呼。


前回のラストで、唐突に、


ところで、何故、ジャッジは複数いるのでしょうか。
そりゃ、ジャッジが1人じゃ、おかしいこともあるからでしょ?
…えっ。ジャッジって、おかしい採点をつけることを前提として、複数いるんですか?


と書きました。


実は、ジャッジが何人いて、何を前提にしてというのも、自分が行った分類によって違います。


1)判定なし(ドローとなる)
2)全体での判定
3)ラウンド毎のポイント制
4)ある有効な状態にポイントが与えられるポイント制


通常であれば、2)と3)の形式では、複数名でジャッジを行います。多くの場合は3名でしょうか。


4)の場合ですと、ジャッジはゼロ名の場合もあります。あれ? ジャッジの話をしているのに、ジャッジがいない? いやいやそんなことはありません。単に、レフェリーが1人でジャッジを行うということです。


例えば、柔術では、レフェリー1名と、チェアマン1名で運営されます。


柔道ですと、主審1名に、副審2名。


が、この場合の副審は、ジャッジするのは実は試合ではない。主審のジャッジをジャッジするのが最大の目的なんですね。


シドニーオリンピック柔道男子の篠原信一選手とダビド・ドゥイエ選手の一戦を例にとるまでもなく、オリンピックなどで柔道を見ていると、試合の途中で、副審が試合を止め、主審を含めて、3者協議がその場で行われ、判定が覆るケースもあります。つまりこれは、副審は主審のジャッジをジャッジして「キミのジャッジ、そうじゃないだろ」と話し合い、その場で、最終的なジャッジを決定するわけです。


副審がいない競技であれば、レフェリー(とか主審とか呼び方は色々あるでしょう)のジャッジが唯一正しいものとされます。勿論、副審のリアルタイムの検証を伴わないことで、ジャッジの正しさへの保障が弱くなりますから、副審がいるシステムに比較すると、競技性は劣るといえます。


柔術のように、レフェリー&チェアマンという構成の場合、チェアマンの役割は、競技や運営方法によって、異なるでしょう。副審を置く場合と同様に、リアルタイムで主審のレフェリーに抗議・訂正できる権限を持つ競技もあれば、そうでない競技もありえると思います。


柔術の場合は、本場ブラジルの国民性もあってか、チェアマンの役割は曖昧みたいですが(よく言えば、おおらかというか)、今年のムンジアルでは、準々決勝以上では、レフェリー&チェアマン体制ではなく、レフェリー自体が3人いて、柔道と似た形式で開催されていたようです(が、運用はブラジル的だったようですが)。


ここでは、柔術が、競技としてさらなる発展を遂げる為には、この部分の改善は必須であることを指摘するに止めます。


と、話は少しずれましたが、とにかく、3)と4)では、ジャッジが、何をジャッジするのか違うということは、ご理解頂けたでしょうか。


4)の場合であれば、レフェリーの判断は絶対的なものであり、その正しさを保障する為に、リアルタイムでサブレフェリー(という言い方を仮にしておきます)が検証します。


2)や3)の場合だって、そういうやり方も有り得るんじゃないか。それはそうなんです。


1R終了するごとに、レフェリー(もしくは、唯一のジャッジを行う人)が、「このラウンドは10−9」と宣言し、サブレフェリーが「待った!」と物言いをつけ、その場で協議を行い、唯一絶対のジャッジを残していって、その合計点で、勝者を決めるというやり方もないではないのです。


が、通常はそうはならないんですね。理由は、もうハッキリしていると思います。


つまり、やはり、2)や3)の形式を取る場合、初めから主観の混入する余地というか、唯一絶対のジャッジは出ないということが、前提になっているんです。つまり、出るジャッジには、幅が出るからこそ、数名で行い、その結果、何らかの方法で、決をとってまとめようという発想をしているんですね。


2)や3)の形式は、ジャッジ基準から、どうしても曖昧になってしまう(つまり幅が出てしまう)からこそ、そうやって、正しさの保障をしようということです。つまり、曖昧さを前提として許容しながらも、複数名でジャッジを行うことで、最終的に絶対的な正しさを目指そうという態度であるという。そして、その態度こそ、競技の本質であるとも言えます(*1)。


加えて、その決のとりかたの種類が、「10ポイントマストシステム」であり、「10ポイントマジョリティーシステム」であり、自分が、アマ修斗のジャッジ方法に、勝手に名づけた「10ポイントサマリーシステム」であったりします。このあたりは、恐らく統計学範疇にも入ってくることだと思うんですが、自分があげた3種類以外にも、方法は存在すると思います。


さて、次回は、ここまで延々書いてきたことに、もう1度「興行性」という要素をぶち込んで、一気にシメに向かおうと思います(が、その前に落穂拾い編を、先にやってしまうかも)。

*1:ルールとジャッジという枠組みとそれを保障するシステムを作ってこそ、その枠内での強さや、競技によっては、早さや高さが競われ、より良い記録が価値を持つ。これが競技の本質であって、例えば陸上競技や水泳競技のように「より早く」がシンプルに競技化と密接するジャンルと、格闘技では、根本の成り立ちが異なるのであって、つまり格闘技という本質的に素手ゴロ一番幻想を抱えるジャンルにおいて、競技という枠組みに格闘技を押し込むことは、ハナから無理があるとも言える。

つまり、素手ゴロ一番幻想に底辺を支えられている総合格闘技を競技化することは、前提において、矛盾を抱えた行為であり、競技化することは、その幻想を失わせる行為であって、その結果、興行性を失っていく総合格闘技というジャンルを、興行として維持する意味があるのかという疑問は、自分の中においても解決できてない。

自分の場合、現場に関わってしまったという事実は大きい。特に未だ選手層の薄さに苦しむ女子総合というジャンルに。プロモーションを維持することを考えるなら、選手層は拡大しなくてはならない。拡大しないと試合が組めないのだから。試合を組む為に、競技化が必要だ。当たり前のことなんである。規模こそ違えど、男子の総合においても、それはまったく一緒の事情であり。

もっとも、スマックガールを作った篠泰樹はそうは考えていなかった。早々に商業的にブレイクさせてしまえば、選手など、どこからでも引っ張ってこれると考えていた。ある意味、それは正しい。ブレイクすればという前提が実現しなかっただけで。

それでは、ブレイクしないことを前提とするならば、さて、総合格闘技はどこに向かえばいいのだろう。いっそのこと、ジャンル自体を終わらせてしまえばいいのか。

すべては、選手の為に。便利な言葉だ。さて、それが本当に最も重要なんだろうか。少なくとも競技とは、競技者の為に存在し、観戦者の為には、存在していない。たまたま、競技者の幸福が、観戦者の幸福と重なる瞬間があるだけだ。観戦者が、その瞬間を味わえること自体が、僥倖と言っていい。そして、運営者は選手より弱いのだ。ましてやファンよりも。そんな事を思って、この電脳如是我聞風に曰く、競技者の幸福が諸悪の本。