電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

ジャッジ話を超えて競技を考え始める

この連載、初出時は2006年の8月から。1ヶ月ほどかけて、12回ほど書いて、そこで行き詰る。前回も書いたが、ジャッジに対する分析は前回で一通り終わったと言っていい。例えば、考察する範囲をルール全般に広げるなりしていけば、やるべきことはいくらでもあるとは思うものの、少なくとも当時の自分には書く気にはならないものだった。

なので、ここからは、今回の書き下ろしとなる。

いくつかの落穂拾いを先に済ましてしまおう。まず、ジャッジの話とはかなり離れてしまうが、競技の話としては、重要な階級制の話。この話は、実はこのブログになってから「階級制においてフェアとは何か?」で、ある程度やっているので、興味ある方は参照のこと。分析というより総合格闘技における階級制とその各論の現状説明であり、また前提に立つのは、むしろ自分が持つ階級制への疑問の方がメインになってしまっているんだが。

さて、この連載の初出を書いていた時期は、丁度、亀田・ランダエタ初戦の直後であり、その後、WBCは世界戦でのオープンスコアリングに踏み切った。同時は、自分はこれに否定的な見解を持っていて、番外編として、それに対する危惧を表明したりしていた。スコアを試合途中で公開することによって、守りに入る選手が増え、点取りゲーム化か加速するんじゃないかというのが、一番の懸念だった。

が、実際に行われてみて、どうだったろう。選手に途中経過を見せてしまえば守りに入る、勿論、そういう傾向も見える。けれども、そんなに悪くないような気がする。少なくとも、地上波で中継するには、分かりやすさと、試合後のジャッジへの不満を和らげる効果の方が、大きい気はする。

自分もジャッジしながら、その結果をツイッターで速報し、出るオープンスコアと比較したりしながら、その反応も受けてみるという経験もした。例えば、今のジャッジ、おかしいとリアルタイムで指摘しても、誰もが基準まで熟知しているわけではない為、結果その場のおかしさはスルーされてしまい、積み上げられた公開された数字が説得力をもってしまうのだ。いいことばかりではないと思うが、やはりその後に実施されたK-1での導入例も見ても、分かり易さという意味で、これでいいのではないかと思った。なので、自分の過去の意見を撤回し、ここで消極的にながら肯定する。で、このオープンスコアな話は、実はこの連載の締めにも影響してくるところであるので、記憶の隅に置いてもらえればと思う。

続いて、初出時に、さらに1回使って書いていたのが、ラウンド毎にマストに判定することの可否。「再論」として細かくやった。が、何故そうすべきなのかという理由が、結局わからないと素直にギブアップしている。仮説として唯一提出できたのは、欧米人の合理性を尊ぶ国民性がそうさせるのではないかという事。ちなみに、これは競技化・競技性の問題とは、あまり関係ない。必ずしもKOシーンが続出するばかりでないボクシングにおいて、一発狙いよりポイントアウト狙いを加速させる、いわゆるラウンドマストは、むしろ、興行性重視の結果なのではあるまいかとすら思う。

けれど、その根底にある合理性を尊ぶという欧米伝統の価値観は、競技という概念において、やはり重要であるとも思う。

競技の前提である公平性を遵守する為には、曖昧さを排除することが必要で、そこには合理性がどうしたって必要だ。散々書いた、数量化・抽象化という概念の根底にも、合理性を尊ぶという精神が存在している。

興行性が競技性と矛盾する以上に、曖昧さは、競技性と根本的に矛盾する。

今話題の大相撲の八百長問題、擁護論の多くが「興行だから」という物言いが多く、これがまったく説得力を持っていないのを散見する。プロ野球も、Jリーグも、興行だ。だから野球もサッカーも八百長OKだとは、決してならない。興行なんだからしょうがない論は、話がここで終わってしまう。ヒステリックさを増す、原理主義的な八百長叩きの物言いには通用しない。というわけで、次回は、大相撲の八百長問題について考えてみる。