電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

勝利を娯楽作品に仕上げる為に

いよいよ次回でこの連載終わる予定。今回で一通り技術的・論理的な話は終わるので、連載全体に対する質問、いくらでも受付ますので、ある方はコメント欄に書き込んでね。ツイッターよりここに残すことに意味があると思うので。今回のコメント欄じゃなくても、ちゃんと分かりますから、疑問がある回のコメント欄でもいいです。

ラス前の今回は、総括というか、ではどう競技を見せればいいのかという話。

突然だが、フィギュアスケートをまったく観たことのない人はあまりいないと思う。かと言って、自分はこの競技についてまったく詳しくないし、オリンピックの時ですら、見ないこともある程度の興味なんだが。

それでも、フィギュアスケートのジャッジ基準なんて誰も知らないことは知っている。勿論、これが誇張表現であるのは為念に記すが、トリプルアクセルトリプルルッツの違いを、直感的に視認できる人間が、どれだけいて、その配点を言える人間がどれだけいるのかと書けば、誰も知らないという表現は、さほど大きな誇張とも思えない。知らないからこそ、得点が表示される瞬間こそが、映像コンテンツとしては、ジャンプを見事に決めた時並みに最大の見所となる。

高得点が出て歓喜を爆発させる選手。意外や低い得点が出ながら気丈に振舞おうする選手。例を挙げればきりがない。解説も、何点出るのか、何点でれば、何位になるのかと数字を強調し、緊張感を煽り、そうして、それがエンターテインメントとして成立している。

ならば、格闘技も、映像コンテンツとして見せるに当っては、それをやればいいのではないかと思うわけだ。フィギュアスケートのアレが受け入れられるなら、それは可能な筈であって。解説者も、驚き屋以外にそこを徹底して説明するパフォーマーを入れる事を前提として。

この連載の3回前で、オープンスコアリングについて、施行前は疑問を持っていたが、それは撤回すると書いた。またアマ修斗のルール説明の時に、締めの時にもう一度触れると予告した。

何が言いたいかと言えば、競技性を保障する細かいジャッジ、つまり、それは数値化・抽象化されたものであるわけで、それは単に分かり難くなるという理由で興行性と矛盾すると書いてきた。が、それをシンプルに分かり易く見せることが出来れば、そのまま興行性に繋がるケースがあるということだ。興行性と競技性は矛盾する場合が多いが、矛盾しないケースだってあるのだ。

ちなみに話は多少ずれるが、小興行では、得点を分かり易くみせる設営をするだけで、それなりに収支を悪化させてしまうほどの負担になる。これを徹底的にやる為に、モニターを入れ、それ用にオリジナル開発したプログラムで得点経過を大写しにしてみたり、試合映像の上に得点表示をクロマキー(まあブルーバックみたいなもんと思ってね、詳細は検索すればすぐ出る)でリアルタイム合成してみせた自分が言うんだから間違いない。たまたま、自分の場合は自分がプログラムを組めて、セラチェン春山くんという協力者がいたからこそ、それが廉価に実現出来ただけで(が、それでも作業量的にキツかったも確か)。

さて仮に、アマ修斗がオリンピック種目に採用されたと考えてみよう。そういう巨大な背景さえあれば、何より収支の問題など発生しないし、自分が分かり難いと書いた、アマ修の得点システムですら、逐次映像で表示し続けることが可能であれば、エンターテインメントとして充分見られるモノになるのではないか。誰も、そのジャッジの詳細を理解しないままであっても。

例えば、柔道やレスリングにおいてもこの傾向は顕著にみられる。柔道の場合は「投げる」という直感的に理解しやすい行為が競技自体の本質だし、レスリングだって「フォール」という概念自体は、決して難しいものではない。が、それ以外の部分、柔道であれば消極性への警告だとか、レスリングであればフォール以外のどういう行為に得点が与えられるのかとか、かなり分かり難いことも確かで。その時、頼りとなるのは、数値化されたポイントだ。残り時間は何分、今の得点は何対何で、逆転するには何か必要でと、そこを強調さえすれば、もうそれが娯楽性を持つ。それが、競技性と興行性の幸福な一致の瞬間だ。

これは、分かり難いとされることが多い、総合格闘技をスペクテータースポーツとして成立させる為の最大のヒントである筈で。

勿論、その前提となるのは、勝利の価値を明確にし、権威を上げること。オリンピックやワールドカップのように。これが運営者とメディアが最も留意すべき努めだろう。チャンピオンシップという概念、ランキングという概念、具体的な方法は多くある。その細部までは、ここでは触れない。が、今世界で一番盛り上がりを見せるUFCは、直訳すれば「究極の戦いの選手権」とネーミングされ、それが世界各国で受け入れられていること、それこそが、総合格闘技の未来を照らす松明なのではないか。それは選手権、つまり頂点を争う戦いだというコンセプトが、ネーミングにおいて明確に説明されているわけだ(が、かと言って、UFCがさほど競技性が高いわけではないことには既に触れた)。

マチュアイズムを前提とする近代競技は、当初は興行性など考慮されていなかった。アマチュアイズムにおいては、勝利勝利である故に唯一絶対の価値を持っていた。勝利者勝利以外の何かを望むことは、卑しい行為として蔑むべきという価値観の基で、それは運営されていた。

現在からこのアマチュアイズムを見ると、さすがにそりゃ無理だろという気がする。競技は密教の修行ではないのだ。一般に開放され、その競技に誰もが参加するを可能にすることで、競技者の底辺を広げること。一方、頂点が世間的な脚光を浴び、経済的な成功を得る、つまり頂点を高く上げること。この2つの両輪を揃えようとする、21世紀的なスペークテータースポーツの概念の方が、はるかに自然なのだ。

では、様々な競技と比較し、格闘技の特殊性について。

格闘技は、一般競技者の参加を促進し難いジャンルであることはよく指摘される。痛そうだし、恐そうだし、何だか始め難いなあ。これが格闘技の競技化に立ちはだかる最大の難所であるとも言える。けれど、この最大の短所は、自分が繰り返して書いてきた、多くの人間が素手ゴロ一番の幻想を持つこと、強くなりたいという欲望が人間の本能的な欲求であることを前提とする限り、充分相殺されると考える。

アフリカや西アジアあたりの貧しい小国で、子供達が、お手製の布袋にモノを詰めたボールを蹴り合ってサッカーに興じる、ありがちでイメージし易い風景。だから、サッカーは競技として強い。が、それと同じくらい、些細な事で揉めて、殴り合いの喧嘩をしている風景だって容易くイメージ出来るのだ。最もそれは、倫理上の観点から、地上波のドキュメント番組になることはないだろう。が、サッカー並み、いやそれ以上の始める動機を、本能的に多くの人間が持っているのが格闘技であることも確かで。殴り合いの喧嘩をする子供を、容易く競技層に取り込み、競技人口を拡大することこそが、競技化の最大の目的であり、その為に開かれた公平性が保障されるシステムを作ることこそが必要となる。

その意味では、問題にされることも多い、いわゆる地下系・不良系のイベントは、さらに安全性に気を配ってさえもらえるならば(勿論、そうでないから問題が顕在化する場合が多いのだが)、競技層底辺の拡大に貢献することはあっても、阻害することはないとすら思う。極端に変形されたアマチュア総合格闘技大会であるだけなのだ。それは、決して真っ当な競技としての入り口ではないが、結果として、そこで競技としての総合格闘技に目覚め、真に頂点を志す気になる選手が1人でも多く生れれば、それはそれでいいと思う。但し、総合格闘技が、公平で真っ当な競技を標榜するのにあたって、不良の喧嘩的なイメージは著しくよろしくないので、一生地下に隠れてやって欲しいとは思うけれど。

さて、いよいよ次回で最終回(と、誰も読んでないのに、自分1人で盛り上がっている)。