電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

滅びの姿

三十路を迎えた辺りから、あまり小説を読まなくなって、もう15年以上大した量は読んでいない。何でそうなってしまったのかと言えば、勿論、読書量自体が激減しているというのが大きいのだが、その減った読書量におけるフィクション比率も歳を取るごとに減り続けていたのも確かで。

ところが、この一年くらい自分の中のフィクション見直し機運が、どんどん高まってきて、元々映画を観る本数やマンガを読む量は、読書量激減に反比例とまではいかないものの減ってなくて、つまり自分の中のフィクション欲(?)は、ほとんどの場合、映画とマンガで満たされていたわけだが、これがようやくああ小説読みたいなあという気分になりつつある。

今更、小説などというオワコン(とあえて書いてみる)を読んでどうすんだという気もしなくもないものの、自分の成分の半分以上は確かに小説でカタチ作られたところがあって、もう老人に近いんだから、新しいモノを探そうとするより自分に回帰するというか、浅く広くより、深く狭くという気分であって、つまり過去に自分が好きだったモノの再読が増えていくと思うのだが、また一方、小説に回帰する気になったのは、結局、小説でしか表現出来ない事があって、ノンフィクションではダメな事があって、それが自分にとっては一番大切なのだという発見があったという事でもある。

というわけで、まずは一冊、この辺りをお勧め。ブログタイトルゆかりの太宰治で一番好きな一冊「右大臣実朝」。これを挙げると驚かれる事が多いんだが。和歌に才能をみせたが、公家に憧れ武士としては脆弱と言われ、事実、正統を自らで絶やす事になる、鎌倉幕府三代将軍の源実朝をリリックに描いた中篇。

老イヌレバ年ノ暮ユクタビゴトニ我身ヒトツト思ホユル哉

アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ

実朝、若い頃からこんな事ばかり言う奴なんである(まあ後者は太宰が書いているわけだが)。若かった自分もそれに痺れたものだが、この歳になっても、再読すると色々と発見があるのが深い。

太宰の作品はほとんど青空文庫で読めるが、やはり本でもっていたい。太宰には文庫がよく似合う。