電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

高橋源一郎が大江健三郎について書いていた

ここ十年の自分にしてみれば、最近は少しは本を読んでいるんだが、どうしても昔自分が好きだった作者の読み逃した本を拾い読みしたりする事が多く、とっくに新刊ではなくなっている本ばかり読んでいるので、何だよ今更感があって、ブログで紹介する気にならない事が多い。

高橋源一郎の「人に言えない習慣、罪深い愉しみ」(朝日文庫)。2003年9月が初版である。もう8年も前の本だ。

自分が高校生の頃に筒井康隆の「みだれ撃ち涜書ノート」や他の読書本を、繰り返し繰り返し読んで、そこに取り上げられている本を見つけてきては、少しずつ世界を広げていったように(自分はそうしてローレンツを読み、マルケスリョサを読み、ここで高橋源一郎がタイトルでオマージュしているバーセルミを読んだ)、高橋源一郎はそうして読まれるべき作家だとは思うものの、もう時代が変わり過ぎていて、そういう常識(すらない今にこういう私的見識)が通用するのかよくわからない。

それでもこんな文章を発見すると、例えば自分がブログでさも新しい発見のごとく書いてきた事など、とっくに書かれてきた事なのだ、新しい事など何処にもないのだという事だけは、再確認する事が出来る。

「良い読者」とは何だろうか。

この問いに答えることは難しくない。

「良い読者」とは、(作者の)主人にも奴隷にもならない読者のことだ。「主人」とは、作者に向かって、面白いことを書け、と注文ばかりつけて自分ではなにもしない読者のことだ。「奴隷」とは、作者がなにを書こうと唯々諾々と受けいれる読者のことだ。そして同じように、「良い作者」もまた、(読者の)主人にも奴隷にもならない作者のことなのである。だが、なにより重要なのは、「良い読者」と「良い作者」は単独では存在できず、お互いを必要としていることだ。読書とは、読者と作者が織りなす、命懸けの共同作業ではなかったろうか。

この文章は、大江健三郎の「憂い顔の童子」という小説(未読)について書かれた文章で出てくるわけだが、自分の世代ならまだしも、高橋源一郎大江健三郎について何かを書いたって、今の若い世代にどれほどの意味があるのかと言われると、いささか心許ないわけだ。自分が長年そういう世界から離れてしまっていたからそう感じるんだと言われるなら、それはその通りだろうし、それだけならばいいのだけれど。

それにしたって、ここで言われる作者と読者の関係は、すべてのメディア、すべての作品の送り手と受け手の幸福な関係について容易く敷衍できる話であるし、そして今、すべてのメディア、すべて作品の送り手と受け手の幸福な関係は、昔に比べて成立し難くなっているという事もまた間違いないとも思う。