電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

幼年期の終わりの始まり

矢作俊彦、山形浩生に反論する

原発の話はもう書くつもりはなかったんだが、比較的自分の視界に入っている偉い先生お二方ということで、読んでいたら、刺激を受けてしまった。ツイッターに呟いて、そのまま転載するだけでもいいんだけど、多少文章いじって補足もしよう。

元の山形浩生の主張は極めて穏健だと思う。真っ当な反原発だったら反原発を目的に経済成長を否定しちゃダメでしょという所に力点を置いた上で、原子力行政についてはこう主張する。

老朽化した原発はきちんとつぶそう。それをまともな工学原則に基づいてきちんと主張できる体制を作ろう。そしてきちんとつぶし、それを安全性の高いものに更新するためにも新しい原子力の研究開発にはお金をつぎこもう。同時に自然エネルギーの研究を進め、コストが十分に下がるよう後押ししよう(今の高価で未熟な技術を延命させる補助金はダメ)

ところが、この程度のものですら、原発推進としてヒステリックな反論を受けてしまうのが、昨今の風潮。山形を「それを誤魔化す連中に、この人は加担している」としてしまう事で、矢作自身が「平衡感覚」を失ってしまっている。つまり、矢作俊彦の反論には非知性的な原理主義の匂いがする。少なくとも、原発を安全に止め、使用済み核燃料の問題を解決する為にも、原子力は研究され続けなければならない。

原発原発推進の問題に関しては、直接的にはもう何も言いたいとは思わないんだが、このやり取りに刺激を受けて、自分は思考は飛躍を開始した。

まずは、山形浩生の「経済成長は人の命を救う」という命題はホントに正しいんだろうか。何だか、ゲートボールに打ち興じる老人たちをみて、うむ日本は豊かになって幸福になったと感動してしまう吉本隆明的な世界の単純化を感じるのだ。豊かになる事は、本当に命を救う事になるのだろうか。成長しきってしまった先進国は、より以上の経済的発展を目指すべきなんだろうか。既に、これ以上経済的には成長しない事を前提として、人々の幸福は考えられるべきなのではないか。

さらには、人の命とはそこまで重いものなのか、つまり、すべては人の命を最優先とすべきなのかという問題。人一人の命は地球より重い的な空想的ヒューマニズムが、何の内実も伴わないのは明らかだとしても、では多数の命を優先する為に、少数の命を切り捨てる発想は許されるのか。分かり易い例を挙げれば、エコロジーにおいては、その思想の論理的帰結として、人類の個体数を減らした方がいいに決まっているわけだ。人がもっと減った方が、地球に優しい。

そんな事を考えていると、自分の思考はさらに飛躍する。

例えば、放射能だらけの「死の街」が草木も育たない荒地になってしまうのかと言ったらそうではない。だったら、発ガン率の増加を覚悟で人が住み続ければ、わずか数百年というタームで放射能に強い耐性をもった種に、人は進化するかもしれない。そうなった時、人は放射能の恐怖に怯える事なしに、結局お湯沸かして水蒸気でタービン回してるだけの原子力発電より、遥かに効率的に、原子力からエネルギーを取り出す事に成功するかもしれない。

種の進化なんて大袈裟な話にしなくとも、低レベルの放射能は発ガン率の増加しかもたらさないと仮定するならば、ガン予防・治療が数百年ではなく数年数十年の単位で飛躍的に進歩すれば、別に放射能なんて怖くも何ともなくなるわけだ。あらあらガンですかーお注射しときましょーねーみたいなレベルになった時、さて原子力はどう考えられるべきなのか。

そこまで思考を飛躍させた上で、自分はこう結論付ける。経済の成長は人の命を救わないかもしれない。少なくとも、救わない可能性を考えないまま、経済成長を考える時代は終わっている。が、人は科学と哲学、つまり知性・理性を進化・成長させる事を拒んでしまったら、その瞬間、人ではなくてってしまうのではないか。勿論、その人でなくなった瞬間こそが、幼年期の終わりなのかもしれない。その可能性まで考えた上で、それでも人は進むべきだと思う。