電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

もう一度同じことはしないかもしれない

第三舞台の封印解除&解散公演「深呼吸する惑星」を紀伊国屋ホールで観た。紀伊国屋ホールに行くこと自体が20年ぶりで、つまり最近はまったく舞台芝居を観ていないので(WOWOWとかで観ることはある)、現在の舞台芝居シーンに対して何かを言う事は出来ないが、何と言っても自分が激しく影響を受けた第三舞台であるので、過去作との比較やら、あの頃の小劇場シーンとの比較でなら、いくらでも書ける。いや書きたい。

ツイッターにも随分と呟いたんだが、全然止まらないのだよ。まだ始まったばかりだし、もう1回観る予定もあるので、それからにしようかと思ったんだが、もう何か書きたくてしょうがない。こちらではネタバレを恐れず書いていくので(それほどでもないけど)、観劇予定がある人は終わってからということで。そこに触れないと話が進まないという。

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1ベルが鳴って、昔のままに「モア・ザン・ディス」流れ暗転すると、黒ずくめの男女が、YMOの「ビハインド・ザ・マスク」に乗って踊り始める。黒ずくめは旗揚げ作の「朝日のような夕日をつれて」だし、「ビハインド・ザ・マスク」は核戦争七部作の締めだった「モダン・ホラー」のテーマ曲(?)だ。「朝日〜」を最初に観たのは紀伊国屋初進出の時だが、その後再演する度、しつこく通ったものだし、「モダンホラー」は初演のスズナリを観ていて、あの厳しい状況もあったからだろう異様な盛り上がりで、自分の観劇体験でもベスト3に入る体験だった。当然、おおーっと思う。

ところが、曲が終わると、黒ずくめの男女は葬式帰りという事が、いきなり説明される。つまり黒ずくめは喪服だったのだ。あれっと思う。「朝日〜」では何故黒服なのかなんて説明はなかった。30年経って、ひょっとして、あれは登場しないヒロインの葬式から旅立っていく男たちの話だったのか、なんて事まで考えてしまう。

すぐに話は地球が植民地としている惑星の話に移る。なるほど、ここの話と、現在の葬式帰りの人たちの世界がリンクして複雑に絡み合いながら、話は進んでいくんだろうなと予想すると、まったくそうではない。最後までこの葬式帰りの人たちの世界には戻らない(微妙にリンクはしているんだが)。惑星での話が丁寧に時系列にそって描かれ、登場人物たちの過去の話は、この惑星にいると見えてしまう「幻覚」という設定によって、徐々に描かれはするものの、「幻覚」という設定がキチンとあるので、実にわかりやすい。例えば「デジャ・ヴュ」のような、同一人格の複数時代への偏在としか解釈出来ないような、前衛的な手法は取られない。

分かり易いんである。このあたりの話、パンフレットで鴻上さんが角田光代と対談してて、かなり細かく語られている。95年あたりを境にして『「1回見て分からない作品は失敗作だと思います。19歳」みたいなアンケートがいっぱいでてきた』そうだ。なるほどなあ、自分は丁度その少し前辺りから、舞台芝居も小説も音楽も現役を離れた感(?)ある人間なので、そんな事知らなかった。風の噂でウェルメイドがうーたらとか言われているらしい程度で。

第三舞台といえば、群がる婦女子を冷ややかな目で見つめ、けっ、こいつらホントにこの複雑なホンを分かってんのかと呟くのが、正しい男の子の観劇態度だったのである。

その意味では「深呼吸する惑星」には、読み解く楽しみはない。劇構造の複雑さは、シンプルな理解を妨げるかもしれないが、作品に多義性と解釈の自由を孕ませ、それが深みを感じさせてくれる。例えば、ヴォネガットのいくつかの作品のように。だから普通のホン以上に、それぞれの第三舞台、それぞれの「宇宙で眠るための方法」があるんだろうし、それが熱狂の理由のひとつでもあった筈だ。

きっと、これでいいのだろう。最近の芝居は観ていないから、現在のシーンにおいて、この作品がどういう意味を持つのか、自分にはまるで分からない。けれど、あの頃ほど「もう一度同じことを」と自信を持って言えなくなってしまった自分にとって、やっぱり「立ち続ける」ことが必要なんだ、変わらないためには変わり続けることが必要なんだと考えさせる力は、勿論、そこにあったんである。

ずっと好きだったんだぜ。