電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

作り物だからこそ強いんだ

糸子、帰ってきてくれー、えーんえーん。という訳で、カーネーション最終回記念(嘘)。先日書いた『「当事者」の時代』の雑感「おいしくない時代を生きる為に」の、やや続き。まったく説明しなかった、フィクションの持つ強さについて。

この前の朝まで生テレビだったと思うが、荻上チキが滔々と理屈を囃し立てていたら、隣の大した事ない会社やってる、やはりそこそこ若い社長が、さも偉そうに、こういう理屈ばかり言う奴が橋下さんに嫌われる典型タイプだ、おれは苦労して会社やってる的なことを、冷笑的に言っていて、何と言うか、よく分かるんだよねえ、こういう現実馬鹿の存在は。

大人になるという事は、いやもっと正確にいえば、真っ当な社会人として生きるという事は、荻上チキ的な私は理屈言いまくります、もしくはそういう奴を偉いと思います的価値観から、おれはこんだけ仕事しているぜという、実務・実績を重視して、そこに価値を認める事に変遷していく歴史であって、つまり学問でも実学を重視し、実学系でも実践を伴わない言論を軽視する事であって、この辺りが、橋下という典型的なファシストさんの、最近の拠り所というか、煽り方が上手いところでもある。

かと言って、理論と実践は両翼、どっちが欠けても駄目なんだ的な、当たり前の事を言いたいのではない。

例えば、この前の町山・上杉対決でよく分かったのは、上杉隆が極度に権威主義的であると同時に、フィクションというより、ナンセンスであったりノンポリティカルなエンタータインメントを軽視している、よくいる俗物である事だった。何故そう思ったのかというをいちいち説明したりはしない。分かる奴には分かる、よくいるよね、そういう奴。散々見てきた。「えっ何マンガの話? なーんだ」とか「映画の話? なーんだ」とか言って、冷笑的に馬鹿にする奴。ベンチャーとか起業とか言ってるインチキ野郎に多い、スキームだとか何だとか、無内容なビジネス本とか啓発本しか読まないタイプ。

これじゃ何を言っているのかよく分からないというのなら、もう少し説明すれば、昔の人ならみんな知っている、筒井康隆の初の論争的な文章と言われる「笑いの理由」というのがある。有名な文章なんだが、初出の「やつあたり文化論」という単行本は既に絶版、「笑いの理由 筒井康隆」で検索すると、このブログの「笑えない理由」が上の方に来るぐらいで、最早、今の若い子はほとんど知らない文章なのだろう。

簡単に説明すれば、パロディーやドタバタやスラップスティックな作品は、社会風刺という意味を持つ事において唯一価値を持つとした百目鬼恭三郎に対し、そんな事はない現実的な意味など持たない方が作品の完成度は高いのだという筒井康隆の反論が中心になっている文章だ。

もう一度書いておけば、この筒井康隆的な価値観から、百目鬼恭三郎的な価値観へ変わっていく事を、筒井康隆的な価値観をクダラないモノ価値の低いモノとして下に見る事を、世間では大人になったという。

しかし、311以降の日本で、自分にはっきり見えたモノは、ジャーナリズムがリアルに密着した存在である限り、決してリアルを撃てないという事だ。何故と言われると説明が難しいので、ここは宿題とするしかないのだが、受け手よりむしろ送り手側の事情からみて、そう確信する。だからこそ、フィクションこそが、作品こそが、唯一真実に届く。そう思う。

と、ここまで書いたものを読み返しても、何かよく分かんないね。駄目だこりゃ。出直してきます。