電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

黒澤明全30作・極私的見所解説その6

五週目「黒澤明全30作・極私的見所解説その5」はこちら

第六週目は「原作に挑む」。前にも書いたが、黒澤は海外著名作の翻案には尽く失敗していると思う。今週は海外と国内の原作モノが交互に来るので、その辺を考えるのも面白い。

「白痴」

黒澤初の文芸大作。何と言っても原作はドストエフスキー。相変らず原節子は凄い(というか怖い)。けれどやっぱり黒澤の翻案モノは駄目だと思う。上品ぶると失敗するというか。「羅生門」の海外での成功に気を良くして挑んだという事なんだろうが、この映画が傑作だとは自分は言い難い。長くて退屈。だから、珍しくこの映画はこれ位しか書くことが浮かばない。

「どですかでん」

退屈であることさえ棚上げすれば黒澤の最高傑作ではないかと思う。活劇ではないある種のお芸術映画だから、そのつもりで観ないと退屈なのはしょうがない。かと言って末期の「夢」みたいな説得力のないメチャクチャではなく、不思議な説得力が横溢している。それは庶民への暖かい視線などでは決してない。ここで黒澤が描いているのは人間、衆愚の狂気だ。その狂気と愚かさゆえの美しさを違和感なく同居させているのが凄い。同じ原作モノでも、洋モノ翻案と違って山本周五郎だと黒澤はリキまない。コンプレックスがないんだな。だからこその原作を遠慮なく陵辱する感じがいい。繰り返すが文芸作なので、軽くお勧めとは言い難いが少なくとも映画を語りたがる人間なら観とかないとな。

「どん底」

ゴーリキーの戯曲を江戸の長屋モノ(?)に翻案。これも失敗作だと思う。だって長屋モノなら落語のシャレた人情劇でも使えばよくない? という気がしてしまう。世界に認められて尚、洋モノ・メインカルチャーへのコンプレックス拭えず、特にかつて最もメインであった舞台芝居への強い劣等感から、意味不明に長回しして、柄にもなく役者性に頼ったり、ちっとも黒澤らしくない。形式は別として内容的には「どですかでん」に似ているのに、原作のテーマ性と翻案のリキミが、ここでも黒澤を縛ってしまっているように見える。「どですかでん」でその縛りが取れるとあんなによくなるのにね。勿論、高く評価する人も多いことは付け加えておくが、おれは評価しない。

「八月の狂詩曲」

自分より蟻の方が扱いがいい事にリチャード・ギアが怒ったという逸話(半分以上ホント)が秀逸な一本。普通にいい話だし、大作感はなく佳作で小品感のある初期の作品群みたいな一本なんだが、普通にいい話には終わらさず、こういうオチを作ってしまうところがこの映画の凄いところ。何で黒澤がこんなクダラない話作るのよ(繰り返すがあくまでいい話なんだが)という疑問にきっちりと答えているというか。「生きものの記録」ではああオチをつけ、これにはこうオチをつける。これぞ黒澤というか、ヘタに文芸文芸して妙な意味付けしたりせずに、物語を狂気の感性で乗り切る時こそ、その潔さが黒澤の魅力なのだと思う。

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