電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

おれ、おめえらとは全然違うんだ

吉本隆明が死ぬ直前に、原発推進的な発言をしたらしいんだが、それは読んでない。読んでないんだが、らしいなあとは思った。

近所に、死後数ヶ月経った今でも小さく吉本隆明コーナーがある本屋があって、あれっこんなのあったのかと、まあ大体は90年代末以降の語り下ろし形式の本が多く、そういうのは読みやすいというのもあり、たまに買っては、ぽつぽつと読んでいた。

例えば、糸井重里が聞き手となっている「悪人正機」(新潮文庫)。

ネットで最近「同調圧力」という言葉で語られるようなもの、それはファッショそのものだと自分は思うんだが、あえてもう少し限定した言い方をするなら、正義ファシズムとも言うべきもので、吉本隆明はこの本で執拗にそのことについて語っている。勿論、十年前の本だから、ネットの現象としてではない、むしろ市民運動的なもの全般に存在する、ある種のヒステリックさを念頭においたものだろう。

 自分だけがストイックな方向に突き進んでいくぶんにはかまわないんですけど、突き詰めていけばいくほど、他人がそうじゃないことが気にくわねえってのが拡大していきましてね。そのうち、こりゃかなわねえってことになるわけですよ。

 こういうことは誰だって、かなわねえと思うものなんですね。以前も言ったように「清貧の思想」とか、そういうのはダメなんです。人間は、そういうふうには生きられない生き物なんですから。自分ばっかり正しいと思いこんでいる人たちは、まずそのことを理解しないといけません。遊んだり、お洒落をしたり、恋愛をしたりっていうことがなくなったら、人類の歴史のいいところはほとんどなくなっちゃうんですよ。(P.98-99)

(前略)人は「自分は、このようにちゃんとしたことを考えているんだ」と強く思えば思うほど、周りの他人が自分と同じように考えていなかったり、全然別のことを考えていたりすると、それが癪にさわってしょうがなくなる、ということでね……。

 でもそれはやっぱりダメなんですよ。真剣に考える自分の隣の人が、テレビのお笑いに夢中になっていたり、遊んでいたりするってことが許せなくなってくるっていのは、間違っているんです。(P.136)

これに付け加える言葉が思いつかない。まったくその通りとしか。

かと思えばこんな言葉もある。

(前略)何か、自分の思っている自己評価より高く見られるようなことだったら嫌だけど、出鱈目なこととか、低く見られることならいいんだってのがこっちの原則なんで。文句言ってるやつらとは違うんだ、俺、おめえらとは全然違うんだぞと思いますけどね。(後略、P.235)

SNS全盛でパーソナル・ブランディングだ何だと言って、自分を実際より高く大きく見せようとすることや、結果として見栄のレベルを超えてただの詐称になるケースを散見する今だからこそ、本当に沁みる言葉だ。

そうして、こういう吉本隆明の言葉に強く影響を受けている事を、また実感する。読んでもいなかった本で、おれに影響を与えるってSFみたいだぜ。