電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

ページを取ってやるという愚かな意識3

ここで延々罵倒を続けていることと、リンクしているわけではないのだが、かと言って、まったく関係ないわけでもなく、リアルが色々動き出してしまい、忙しさというより精神的なプラオリティの折り合いにより、時間を失い、魂を梳らないと悪口が、出なくなりつつある。

いい加減なこと書き飛ばしているように見えて、悪口書くのは、気力も体力も使うのだよ。

太宰治が、その末期に「如是我聞」を書き上げることが出来たのは、書くことが彼にとっての至上の命題であり、かつ、それが、彼が生活の糧を得る為に出来る唯一の仕事でもあったからだ。多くの人間にとって、このふたつは揃わない。あっても、そのどちらか一方。多くのライターと呼ばれる人間にとって、書くことは、それほど重要な行為ではないし、さらには、今の世の中、書くことなんぞ、最も経済的な対価を得難い仕事のひとつと言ってよい。太宰は、書くことしか出来なかったのだ。今だったら、書くしか能のない人間(まあキチガイだね)など、ネット以外では、書くこと自体を許されない場合が多い。

たまたま、そのふたつを幸運にも得た人間であれば、書くこと自体に良心的であろうとすればするほど、そのふたつが矛盾することに気付く。あえて幸運と書いたが、それは一般的には不運なことだろう。苦しいよね。

罵倒を芸にまでするのが難しいのと同じ程度に、称揚を芸にするのだって難しい。

提灯記事と本気の称揚の境を、多くの読者は理解できない。いや、書き手自らですら、その境がわからなくなっていく。だからこそ、その境を本気で超えようとする行為自体に挑まなくなってしまう書き手は多い。

悪口だったらどうだ。単なる悪口と芸の境があろうとなかろうと、立つカドは一緒。カドが立てば生き難いのである。安い給料で、安い原稿料で、わざわざカドを立てる必要はない。当たり前の話だ。自分は、今の立場に戻ったからこそ、単なるブログであるからこそ、罵倒を芸に磨く時間と自由をも手に入れた。だからと言って、良い悪口(なんてものがあるとして)を書こうとすればするほど、何やら得体の知れない深みにハマり、息苦しくなっていくのは、同じこと。

そして、何かを諦める。プロのライターであれば、それは仕事として割り切るというカタチを取る場合が多い。

さて。この話、続きもオチもない。単に書いておきたくなっただけ。罵倒に戻る。

例によって「HENTAI座談会」より。

−−(前略)ただ、ジョシカクってよく「レベルが低くて観てられない」なんて声も耳にするんですけど、そのへんはどうですか?

高崎 まあ、レベルが高いか低いかっていうと、俺は全体で平均すれば男子より低いのは事実だと思うけど。

橋本 トップとボトムのバラつきが非常にあるってことですね。

高崎 パックリわかれちゃってるよね。だからならすとだいぶ低くなっちゃう。

あまりに凡庸な語り。凡庸過ぎる語り。男子に比較すれば、興行数も少なく、選手層も薄く、そんな目の前の事実を、言い替えただけ。いったい、この座談会で、求められている役割を何だと思っているのだろう。専門誌出身のライターとして。何一つ語れてないのだ。実際、この2人は、トップとボトムの間を知らない。その間に生まれつつある豊饒を知らない。見ていないから、いや恐らく見ても、なお、それに気付かない。

ひたすらヌルい仕事っぷり。お前ら、諦め過ぎ。

と、中々「ページを取ってやるという愚かな意識」まで辿りつかないのだが、何とか振り絞って続く。