電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

水道水がカルキで消毒されてない世界

崖の上のポニョ」について、昨日は『少なくとも、見た人間が「神経症と不安の時代に立ち向か」う気になる映画ではない』と書いた。はっきり言えば、そんな生やさしいもんじゃないと思う。この映画、神経症を悪化させ、不安を増大させることを意図して作られているとしか思えなかった。

当たり前に感動出来るシーンが、見事なくらいひとつもない。心温まる、と言っていい程度のシーンがいくつかある程度。ストーリーもキャラ設定もムチャクチャだ。

例えば、ボニョのお母さんは化け物にしか見えない、イタリア語風ネーミングのグランマンマーレ、お父さんは元人間(?)で日本人風のフジモト、んで、その子供は「お魚」でドイツ語のブリュンヒルデ。ここまでいくと、神話的混沌の世界というより、単なるデタラメというべきではないのか。

第一、ポニョが全然可愛くない。この映画で一番可愛いのは、勿論、リサであり(これは自分の好みなだけという説もあるが)、その次が、やや痴呆化したお婆さんたち(トキさん以外)であり、その次に、ようやく、ガキの割にはコマっちゃくれた宗介だろう。加えて、みんな、どこか少しだけ微妙に狂っている。人間的にマトモな反応を示すのは、可愛くないお婆さんトキさんだけだ。

一体、これは何なのだろう。ここまで、徹底的に、アンチ・ステロタイプというか、かと言って、意表をつくという感じもまったくなく、意味付けの固定は周到に回避され、寓意は発生しない。

5歳のガキが「ポニョを守る」ことを決意する冒頭から、異様だ。そもそも「守る」という感情は、ガキとは最も無縁な感情ではないのか。

長々とリサとグランマンマーレが話し合った挙句、宗介が「半魚人のポニョも好きだよ」と宣言しただけで、「世界の綻びは閉じられました」ってラストも、何だそりゃって感じ。この映画で、唯一、寓意が発生し、意味が固定されるのは、ここだけであるのだが、ここで感動させるには、半魚人のポニョは、あの程度の中途半端な気持ち悪さではなく、徹底的に醜く描かれるべきで、そうすることによって、そういう醜い「半魚人のポニョ」も好きであることが、感動出来る仕掛けになるわけだが、そうもしていない。つまり、感動させようともしてないし、唯一発生させた寓意を強調する気も感じられない。

ここまで徹底されると、つまり、これは全部わざとやろうとしているとしか思えないのだ。

つまり、宮崎駿は、神経症を悪化させ不安を増大させる為に、この中途半端にアンチ・ロマンで、徹底的にアンチ・ステロタイプな映画を作った。そういうことだと確信する。

あっ、次回でヴァルキリーに戻して完結させられそうだ。続く。