電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

生まれてきてよかった…かな?

というわけで、短期だがあまり集中してない連載も、今回で最後。

崖の上のポニョ」という映画は、宮崎駿の世界への復讐の為の映画ではないのか。彼ほど、商業的にも作品的にも成功しているアニメ監督など、世界中を探しても誰もいない。だからと言って、そういう人間が、世界に満足しているのかと言ったら、それは勿論違うのだ。自分のように、何の成功もしていない人間が、そういうことを言うのも、やや歯がゆいというか、説得力に欠けるのだが、直感的に、自分の推量が正しいことを確信する。

自分には、この徹底的なクソ映画が、やっぱり商業的に成功してしまうことで、宮崎駿の「…けっ」という世界を笑う声が聞こえたような気がしたね。つまり「崖の上のポニョ」につけられた、「生まれてきてよかった。」というコピーは、その後に「…けっ」が省略されているのだ。

宮崎駿は、他人の神経症を悪化させ不安を増大させることで、自分の神経症と不安に立ち向う(結果、がっぽがぽ儲ける)。

自分は、女を金網に放り込んでみれば、ひょっとしたら、神経症と不安の時代に立ち向かえるのではないかと、本気で考えてみたりして、その妄想に熱中(して、多分また色々なモノを失うと同時に、幾許かの得がたい経験をする)。

と、こうやって、突然話をヴァルキリーに戻すわけだが、宮崎駿と長尾メモ8、どちらが偉いのかといえば、勿論、その動機においても、宮崎駿の方が、クリエイター/アーティストとして、一億倍くらい偉いのだ。わかるかなここ。エゴ。いわゆるアーティスト・エゴの持ち方の話で。商業的に成功するから偉いのではないのだ。そういう内的動機のみで、あの歳になって、未だ作品に向えることが偉いのだ。残念ながら、自分はそういう人間でありたいと願いつつも、いや少なくともそういう価値観を持っていつつも、そういうことが出来ない。

自分と宮崎駿を比較することの不遜さは、まあ、お許し願うとして、同じ「神経症と不安の時代に立ち向う」のでも、まさに対極的というか、そういうことなのである。彼のコピーから触発され、結果、ヴァルキリーな総合をスーパーバイズすることになった自分の心の動きを、宮崎駿とその作家性から考えてみたら、「崖の上のポニョ」は、こんな風に分析・批評出来た。むう、多分、世界で3人くらいしか理解できないような事を書いてしまったね。

ああ、生まれてきてよかった。…けっ。

ところで、神経症と不安の時代って何?