電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

続エコなスポーツを目指して

エコロジーの話をしだすと危ないことを書きそうな自分が怖い。いや、もっと正確に言えば、いくらでも面白いことは書けるが、それはブラックなネタになりがちであるということだ。

なので、ブラックに振らないように注意しながら、なるべく淡々と表現するならば、エコが「地球にやさしく」をお題目とする限り、論理的帰結は人口抑制しかありえず、それは往々にして、優生学レイシズムを生む。これは、民主主義とファシズムの関係に似ている。仮にファシズムは絶対悪で唾棄すべきものと仮定するとして、そのファシズムとは民主主義の一形態であり、民主主義しかファシズムを生み出さないからといって、民主主義もファシズムと同様に唾棄すべきものなのかといえば、それは決してそうではない。つまり、一般的には優生学レイシズムも悪であるとみなされることが多いが、エコロジーがそれに直結するからといって、エコロジーまでが悪なのかといえば、そうではないということだ。

最も、自分は個人的には「地球にやさしくする暇があったら、隣のみっちゃんにもっとやさしくしてあげなさい」と躾けられて育ったので、基本的にアンチ・エコロジーな人間なんだが、「貴方は地球に優しいこと何かしてますか?」と問われたら、「生活切り詰めてます」と即答出来るのであって、それは勿論貧乏が最大の理由なのだが、このような言い換えこそが、エコにとっては重要であることは言うまでもない。

小渕少子化担当相が、自ら妊娠してみせたというのは、実に微笑ましい話題であるとは思うものの、少子化こそがエコであることは、もっと語られていい話題だとは思う。少子化を維持しながら高齢化は抑制していくことこそ、国力の維持とエコの共存を目指す為には眼目であり、不評な後期高齢者医療制度(と今後のこの制度の推移)こそ、エコが国策となった我が日本国の切り札であると思うし、その意味では、不景気すらもエコである。ああ、地球にやさしい国、ニッポン。

などと書いてみても、いったいどうすればエコなスポーツの話に繋がるのか、さっぱりわかってない。