電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

評価とはいったい何か

映画「おくりびと」、日本アカデミー賞を独占したという話題より、米国アカデミー賞の「外国語映画賞」を受賞したということの方が、はるかに話題になっているような気がするんだが、こういう点では、日本人の舶来信仰は未だに変ってないことの証明であるとも言えなくもないが(村上春樹エルサレム賞もしかり)、日本アカデミー賞が、あまりに権威がないからということでもある。日本アカデミー賞の過去の受賞一覧を見てみると、例えば一番代表的な賞と言っていいだろう作品賞、見てない映画があまりに多く、残念ながら、それぞれの受賞が妥当であるか判断つかないんだが、だからと言って、日本アカデミー賞は権威ないよなあという判断が間違っているとも思えず、いったい人のこういう価値判断(というか、この場合はメモ8の価値判断)は、何からなされているんだろうと考えていくと、世の中色々と複雑だねという、極めていい加減な結論を出すしかないという。

映画でもいい、文学でもいい、音楽でもいい、勿論、格闘技における個々の試合であったり、興行全体であったりでもいいのだが、「評価」とはいったい何なのかという話になると、例えば、自分が評価が高い(低い)という場合、それはやはり多数決的な評価と、一部識者の評価のバランスの総体だ。そして今はその一部識者と目されるべき人々とはいったい何なのかという基準自体が曖昧になっていることが、評価自体が紊乱する最大の原因であるともいえる。

TVドラマなどだと、視聴率というゼニカネに密接する評価があり、それが公表されることによって、それのみが絶対的評価であるように流通する傾向が出てきているわけで、映画の興行収入しかり、本やCDの売り上げしかりなのだが、勿論、それが作品の出来不出来を決定するわけではないという絶対的真理に対しては、誰も否定する人はいないだろうが、かと言って、「やっぱ売れなきゃ意味ない」という価値観は確かにあってもよく、それが「売れた作品イコールいい作品」とまで暴走していく過程こそが、現在のメディアの恐ろしさでもある。

勿論、ヤマトやガンダムの初回TVシリーズが低視聴率であったことは有名な話で、つまり時系列において、ある時点のみでの判断だけでなく、いわゆる歴史が評価するということもよくあることで、その意味では、埋もれた過去作品を知らしめていく作業は、その作品を不当に低い評価から立ち直させるキッカケにもなるわけで、例えば、小津安二郎の再評価は、蓮實重彦やヴィム・ヴェンタースのお陰だろうし、あれがなかったら、いわゆる邦画の4大巨匠(という表現が正しいモノなのか、未だ確信が持てないし、それがいつの頃から言われてきた表現なのかも、自分は知らない)の1人に、小津が入っていたのかどうか、はなはだ心許ないと思うし、では、自分のような無名人が声をあげることに、どれだけ意味があるのかといえば、これまた、はなはだ心許ない。