電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

プロモーターとセンチメンタリズム

大会が終わると、体力も気力も振り切ってしまうので、なかなか文章を書く気にならないのもので、今回は特に体力的な消耗が激しく、と書けば少しはカッコいいのだが、このプロモーター話、もう純粋に少しでも話題を集めて、少しでもヴァルキリーのサイトに人を流そうとしただけなので、あんまり先のことを考えてなかったのだ。

なので、自分の書いた文章を読み返してみた。

すべてのプロモーターはある程度の時間が経過すれば、それは必然的に破産するのだということを前提として、「続く仕組み」は考えられるべきなのではないか

では、例えば、自分が長年関わっている女子の総合。果たして、ひいひい言いながら、東京で、そして今、やるべきなのか?

というあたりは、ホントにそうだよなあと思う。思うんだが、けれどそれでも、きっと自分はまだ続けるわけで。

トリノコのおっちゃんが、ハードボイルドは最もセンチメンタルな文学という言い方で、今回の金網で殴り合うヴァルキリーが、ベタベタなセンチメンタリズムで彩られていた(方向に振った演出、もっとも高々選曲だけなのだけど)こと、その相性のよさについて、ミクシィで書いていたが、勿論、それは当然なのだけど、それにしたって、センチメンタル過ぎるんじゃないかという指摘は、当日から、結構あって。

今回、選手の入場曲以外の曲に、すべてビートルズのカバー曲を使ったのだけど、ただ使っただけでなく、色々な仕掛けをしているのだが、気付いた人も気付かない人も、それはそれでよく、終了後に話題にされただけで、興行的には、恐らくそれは成功なのだ。その意味では、不評もまた成功というか。

専門誌だったか、どこかのブログだったか覚えてないが、「選手が勝ったら選手の手柄、選手が負けたらトレーナーのせい」というのがあって、それはまったくその通りで、興行全体だって「好評ならば選手の手柄、クソミソならば主催者側のせい」であって、つまり、主催する側は、選手の戦いを増幅して、客席に届けるのが使命であり、その意味では、あまりエゴを押し出す演出はすべきではないのである。が、エゴがまるでないのも、これまた物足りないものであって、考えること、凝ること、つまり、思いを乗せることが一番大切なのであって、そして、それは経験的に、どんなに少数だけであっても必ず伝わるものだ。

例えば、勝敗決定時に流した曲は、「You Can't Do that」「My Brave Face」「Thank you Girl」「Bad Boy」「There's a Place」「In My Life」の6曲であり、メインに使った「In My Life」を別にすれば、正直無名の曲ばかりであり(ポールの曲である「My Brave Face」なんて、おれもロクロク聴いたこともなかったよ)、勿論、わざとそうしているのであって「へえ全部ビートルズだったんだ」でいいのである。元々、ビートルズなのだから、曲自体はいい曲ばかりで、後はどんなアレンジをされているかでシーンに合わせるのであり、つまり、そこで初めてカバーを使った意味が出てくるわけね。

そうやって、パンクっぽいアレンジであったり、まあ勝利時によくあるバターンの曲を積み上げていって、最後に有名な「In My Life」を、しかも原曲よりベタベタな奴を使うから、それがよく効き、より一層おセンチな空気を作れるわけだ。最も、最近の若い子は「In My Life」も知らないと言われてしまえば、それまでなんだが、曲など知らずとも、あのベタベタな空気は間違いなく伝わった筈で、それはあのセンチメンタルな空気に、辻結花なら負けない、いやより引き立つという確信があったからでもあり、さらには、その後に続く、もぎゅPの挨拶をも増幅させるだろうという計算をしていたということだ(ああん、もぎゃP、怒らないで怒らないで)。

勿論、その方向性自体が、湿っててヤだという声は、既に多く頂いていて、例えば、ゴン格の松山編集長は、大会終了後、自分の顔を見るなり「メモ8さん! センチメンタル過ぎる! イン・マイ・ライフはないよ!」といきなり言い出した。こっちは、まさにニンマリである。つまり、狙ってフックを作って、フックしたのだ。

と、何で長々と本来説明すべきでない演出意図を書いているのかといえば、いつもネガティブなことばかり書いている自分であるが、そこまで考えて必死にやっていますよという自己主張です。そこが中々わかってもらえなくて。

少なくとも、自分に関していえば、プロモーターはセンチメンタリズムで興行を続けているのだ。