電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

だから前田慶次郎は誰がやるんだ

昨日の、大河ドラマ天地人」が、突如面白くなった。本能寺の変が終わって、その直後の歴史のすっ飛ばし方は如何かと思うものの、笹野高史の秀吉がようやく風貌に一致する時期になったこともあり、小栗旬石田三成が、最近ではそう描かれることが少なくなった嫌味で傲慢な典型的な三成像を、上手く演じていることもあり、初めてと言っていいくらい、面白いと思わせてくれた。尤も、三成は、来週でいきなりベビーターンしてしまうみたいなんだが。

が、何より、今回初演出だった野田雄介という人の能力の可能性も高そうで。これから数回この人の演出が続くようなので、これは楽しみ。脚本は相変わらずなんだが。そうそう、真田昌幸岩松了がやるそうで、これはいいキャストだ。すんげえ軽い役だったりするかもだが。

映像作品の場合、演出と脚本と編集は三位一体だが、そのどれかひとつがイマイチでも、充分他で補完出来てしまう場合も多く(勿論その前提となるのは、キャストなんだけど)、そんなことを考えさせる回だった。

脚本というのは、具体的な作業としてどういうものかは、誰でもイメージが沸き易く、分かり易いと思うんだが、演出や編集というのは、一般の人間にはわかり難いことが多い。まず編集といえば、実際に撮った映像を切り刻んで並べていく作業であり、これは実際の編集作業をしたことがない人には、非常にわかり難い作業だと思うが、最近では、動画サイト用の簡易映像編集ソフトを使ったことがある人が増え、直感的に理解しやすくなっているのかもしれない。何と言っても、分かり難いのは、演出という作業だ。

テレビドラマの場合、特に大河ドラマみたいに複数の演出家とそれを束ねるチーフがいる場合、映像作品として最終的に誰の作品なのかというのは極めてわかり難く、チームの作品と言ってしまえばそれが答えなんだろうが、この辺り、誰が具体的にどういう作業をするのかという話から始まり、映画における「監督」や舞台芝居における「演出」と比較すると、個人の作家性は、あまり発揮出来ないカタチになっていることは想像出来る。

などと、ボソボソ書きながら、実は「天地人」と微妙にキャストがガブっている、樋口真嗣リメイク版「隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS」と、原典である黒澤明の名作(とされる)の新旧作比較しながら、演出と脚本の絡みについて書きたいんだが、とっくに旬を逃していることもあり、どうも進みませんな。と、書こう書こうと思っているメモ書きだけが消化しきれずに溜まっていく。