電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

他人の人生なんて応援する余裕はない

「Jポップ」という言葉が定着して久しいが、それと時期を同じくして「人生応援歌」とか「応援ソング」という言葉が、肯定的に使われるようになった。昔はそういう歌は「クサい」とか「ダサい」とか言われたわけだ。否、この表現は少し語弊があって、昔からそういう歌が売れてきたわけだし、メジャーであったにも関わらず、それが説得力のある評者からは評価を得なかった。という表現もまだ語弊があるんだが。

ポップソングなんだから、大衆から評価されなければ、つまり売れなければ、極論として、意味ないともいえるのは確かだが、この場合においても、評価とは何なのかという話になる。ここで例えば「識者には馬鹿にされていた」という表現を書くことは可能だが、それがどこまで的を射ているのかといえば、はなはだ心許ない。

RCサクセッションの名曲「スローバラード」の入った「シングルマン」というアルバムが、発売からしばらくして絶版になってしまい、RCのブレイクとともに、ファンから再発運動が起こったというのは有名な話だが、「スローバラード」で「悪い予感もかけらもないさ」と肯定的に歌われる風景は、もう当たり前に考えれば、否定的に語らざるを得ない、かなり悲しい風景だ。

市営グラウンドの駐車場で、クルマの中で寝ているわけである。悪い予感がしまくりなのである。だけれどもと云うか、だからこそと云うか、そこで歌われる「悪い予感もかけらもない」という歌詞が説得力を持つわけだ。この詩を清志郎が書いた時、リスナーを慰めようとか力付けようとか、そんなことはまったく考えてもみなかった筈であり、つまり他人の人生を小賢しく応援しようなどと考えて作られた詩だったら、歴史の評価には耐えられない。

自分くらいの歳だと、人生応援歌といえば、やはり水前寺清子であって、今でも歌詞を思い浮かべてみると、結構鋭い。「勝った負けたと騒ぐじゃないよ、後の態度が大事だよ」とか「押してもダメなら引いてみな」とか。かと言って、五月蝿いよ感は満載なのはご覧の通りというか。所詮、応援歌なんてそんなもんだ。