電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

外に開く門

昨晩「JWAVE」でやっていたビートルズ特集、リスナーの選ぶベストテンで、トップ3曲が「レット・イット・ビー」「イエスタデイ」「ヘイ・ジュード」だった。いわゆる典型的な素人選曲であって、何で「JWAVE」でそうなってしまうのか、台本作家がビートルズに理解が浅いのか(考え難い)、わざと順位を作っているのか、普通に投票させたらホントにそうなってしまったのか、いずれにせよあまりに凡庸なベストテンであった。

このポールの3曲を名曲であるとするのには異存はないんだが、こういう価値観だと、つまりビートルズは「ラバーソウル」あたりから、音楽と多重録音に目覚めて、「サージェントペパー」あたりで、あるひとつの到達点に達して、最後の「アビーロード」がまた凄いという、いわば常識的なビードルズ正史であって、それはそれでいいと思うものの(番組でもそういう扱いだったし、そもそもが、リマスタのオマケの映像がそういう扱いだ)、今更「JWAVE」でそんなことやってどうなるのかと思ったことも事実だ。

が、これでいいのかもしれない。今の若い子は、ビードルズなんて聴かないのであって、最初は正史から入る。そして、気に入ればさらに深くはまって、自分の楽しみを発見する。それでいいのかもしれない。門は広く外に開けておく。

埴谷雄高の代表作「死霊」は、超難解な哲学小説であるが、登場人物として、軽薄なオバさんが、狂言回し的に出てくるんだが、これは作品を外に開く門だということを作者自身が言っていたらしく、誰かが書いていた記憶がある。残念なことに、これは門になってない。軽い人物がひとり出てこようが、それで今まで埴谷雄高の文章を読んでいない層が「死霊」を手にとる可能性はまずない。作品をより多くに見せていく為に開く門とは、本質から外れた仕掛けではなく、その本質を分かり易く見せることであるべきだと思う。

この意味で、「レット・イット・ビー」「イエスタデイ」「ヘイ・ジュード」はビートルズの本質なのかといえば、そこは大いに微妙で「だってポールじゃん」の一言で終わってしまうともいえて、しかし、一般的に名曲とされてる分かり易い曲は、ポールの手によるものが多いというのは、かなり的を射たビートルズの本質なのだとは思う。