電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

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ちょっと前に、Web2.0インタラクティブだと言っても、むしろウェブは退化している印象さえ受けると書いたが、書いた途端に、ツイッターのブレイクで、すべてのウェブは、やっと真のバージョン2になりつつある。つまり、一時的な停滞は、結局、進化をもたらすということだ。いやかなり強引だが。

こういうツイッターに対する評価、ツイッターのブレイクがまさに現在進行形であるので、微妙といえば微妙だし、過大に評価しようとすると、いやいや欧米ではもうアカウント数の増加は止まっているとか何とか、そういう否定的な意見を言いたがる奴もいるわけだが、自分にとっては、パソコン通信の狭い世界から、インターネットが広まり始めた時以来の衝撃と言ってよく、まさにツイッターこそが、Web2.0、バージョン2である。

ネットにおいては、アーリーアダプターからアーリーマジョリティの段階の末期、最早レイトマジョリティーの段階に入った感すらあるものの、実はこの段階分け自体が「ネットを日常的にする人」の中の括りであり、その意味では、世間的にみたら、まだまだネットの1ツールであるツイッターなど知らない奴ばかりで、今こそが、ネットのアーリーな1現象であり、結局、インターネットは15年経っても、やらない奴はやらないメディア/ツールであるのと同じように、ツイッターの浸透も限界は見えているとも言える。

が、ネットPCという概念が「パソコンって言ったって、メールとウェブくらいしか」という層を対象にしたのと同じレベルで、ツイッターは「パソコンって言ったって、メールとウェブとツイッターくらいしか」とまで育つ可能性を見せ始めていて、これはもう数ヶ月前から言われていたものの、ホントかなあと懐疑的であった自分ですら、確かにそこまで行きそうだなと意見を変更するに至ったほどだ。

インターネットの登場の衝撃とは、端的に言ってしまえば、ああこれで世界に自分の声が届いてしまうかもという衝撃だった。勿論これは、あくまで自分の衝撃であって、結果としては、むしろ知識の共有化、外部記憶装置化としての機能の方が、はるかに重要なのかもしれないが、いやいや衝撃とは、感情であり、情緒の一種であり、おれが受けた衝撃を同じように受けた人間は山ほどいた筈だ。

その意味で、自分が受けたツイッターの衝撃は、ああ今度こそ本当に自分の声は世界に届いてしまうかもしれない、というワクワク感こそが重要であると思う。ツイッターの何が新しいのかといえば、システムとシステムのバランスが、その可能性を担保しているという1点に尽きる。と、初めてこの意味で「担保」という言葉を使ってみたが、合っているかな?