電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

柿食えず冬きたりなば師走かな

初回2回目と録画はしていたものの、リアルタイムでは見てなかった「坂の上の雲」、ようやく3回目にして、リアルタイムに追いついた。いやあ、凄いわ。素晴らしい出来。真っ当に人材集めて、真っ当にかつ丁寧に作ったら、こうなりましたという感じで。あえて粗を探すなら、爺さん役者使い過ぎということくらいか。大物感出す為にはしょうがないってのは理解できるものの。

これ見て、馬鹿野郎、あんだけ予算あって、あんだけ豪華なオープンセット組んで、あんだけ達者な役者を使えるなら、おれだってこの位、いやもっと面白くしてやると歯噛みしている映画人がいっぱいいそうな気がする。

このドラマ、基本的に採算とか収支とかを考える必要はないわけで。極論してしまえば、視聴率さえもどうでもいいわけで。国家事業みたいなもんで。

そこまでして、こんなもん作る意味あんのか。

実は、司馬遼太郎の原作、読んでいない。時間がいくらでもあった若い頃、司馬遼は長ければ長いほど、ありがみが増すみたいなところがあって、長い奴は片っ端から読んだものの、明治期以降のモノは一切読んでない。なんか生臭く感じてさ。明治期以降のモノは面白くないと断言する奴も、結構いた。自分は読んでないので、その判断が正しいのかは知らないが。

まだ、左巻きな方がカッコいいという時代だった。明治が作った大日本帝国と軍隊こそが間違い、あの時代は唾棄すべき時代というのが、ステロタイプな左巻きの理屈だったし、東郷平八郎なんて英雄視したら、頭おかしいんじゃないのという時代だった。今でこそ、司馬遼のバランス感覚が再評価されることも多いが、その司馬遼にしたって、右寄りだなんて言う奴すらいて。

ドラマ化にあたり、こっそり読んでおこうかなとも思ったものの、この歳になってそれしてもなあという感じで。だから、この原作が、これだけ予算かけて、ドラマにする意味あんのかと言われると、正確なところは判断しようがない。

が、あえて、無駄であると仮定してみようか。

無駄でいいのだ。文化とは無駄の集積なのだ。自分はそう考えている。だから、面白いんじゃないか。採算とか収支とか、世の中、五月蝿過ぎだ。いいじゃねえかよ、そんなの。自分が、採算とか収支とか、そんなものに追われてまくっているからこそ、そう思う。その無駄が可能であるなら、無駄でいいのだ。だからこそ「坂の上の雲」、全面的に賞賛する。

そうそう、携帯代とか電気代とか、止まりそうになるまで払わないが、NHKの受信料は、ケーブルテレビが勝手に引き落とすので、BS含めてちゃんと払ってる。偉いな、おれって。否、当たり前。