電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

龍馬ほどゆけないならば

今年に入って、新しい本は1冊も読んでないと書いたが、一度読んだ本なら、読み直している。現在自宅のトイレには、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」が置きっぱなしになっていて、読み返しているのだ。1巻はほぼすっ飛ばして、2巻あたりから、ぽつぽつ読み始めて(今の大河ドラマはこのあたり)、このあたりから、どんどん面白くなるので、読む箇所が多くなってきて(というか飛ばす箇所が少なくなってきて)、1ヶ月ちょっとで、現在4巻まで辿りついた。

「青年は龍馬を目指す」などと言い方がある一方で、歴史好きというか、いわゆるコアなマニア層(笑)には、坂本龍馬という人は、見切られている感がある。凄いと思うけど、いわゆるビジネスマン的に優れていた人だから、あまり好きじゃないよなあというベクトルが多いように感じる。人間的な迫力というか大物感でも、所詮、西郷どんには勝てないだろ的な見方もあって。

龍馬伝」がそうであるように、「竜馬がゆく」の龍馬もモテまくる。只でさえ自分がモテまくらないので、この歳になると、益々、龍馬を自分に重ねてみることは難しい。いや自分は若い頃から自分に対する見切り感が強く、幕末から明治期でいえば、清河八郎とか後藤象二郎あたりの、ハッタリ屋に、自分を重ねることが多かった。もしくは、陸奥宗光みたいな切れ者か。

こういう歴史上の偉人に、自分を重ねる行為は、実に恥かしい。飲み屋で「キミは信長、貴方は秀吉、してみると、ボクは家康かね」とか言っているオヤジ的に。

が、そういう恥かしさを別として、人間のタイプとして自分を考えるということは無駄ではないと思う。格闘技の世界に入ってから、多くのプロモーターというハッタリ屋と多く交わってから、比較的ハッタリ屋であると思っていた自分など、まったくハッタリ屋でないことに気付いた。つまり、清河八郎でも後藤象二郎でもない。陸奥宗光ほど切れ者でありたいとは、未だに思うが、これも能力の問題として無理だろう。所詮、岡田以蔵レベルだよなとかも言わない。武市半平太のように急ぎ過ぎてもなと思う。

では、誰なのか。明確に2人の名前が自分には見えているんだが、それは書かない。だって、恥かしいじゃん。が、この2人、そこまで偉人にはなれずとも、そういう生き方だけなら、やる気になれば出来る筈だと思わせる生き方をしていて。わかり易いんだよな。

その2人は、まったく立場もやったことも違う2人でありながら、何故か辞世の句が似ている。