電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

ひねくれオリンピック批評

ほとんど見てない冬季五輪、ジャンプのラージヒルに続いて、さすがにフィギュアスケートは見てしまったのだが、芸術点のある競技は、運営(というか、その競技のもつレギュレーションやルールに)ついて、考えさせられることが多い。ジャンプでも飛形点の加点はあるものの、さほど比率は大きくないし、それ以上に、素人の直感と実際に出る得点に、そんなに開きがない場合が多い。

フィギュアはその辺のニュースサイトやらで説明されていた採点方法を読んで、精一杯その方法を理解しても、実際に見た映像と直感的な採点が結びつかない。フリーの方は、まあ妥当なんだろうけど(とはいえ、これもトリプルアクセルの扱いの問題はある)、SPの方などでは、キムヨナが異様に高得点が出ているという指摘もいくつもみた。勿論、その前提となる、ロビー活動についても。

しかしだ。多分、ロビー活動を含めて、フィギュアは、近代競技を超えた、スペクテイタースポーツなんだろうし、オリンピックで行われた途端、すべての種目が、スペクテイタースポーツ化するということだと思う。

さらには、そのスペクテイターのあり方が、総合格闘技とはまったく違う観点で、スペクテイターしているところが面白い。キムヨナには負けたけど、真央ちゃんの方が面白かったよね! とは、誰も言わない。何故、格闘技だけは、自分も含め、面白い/面白くないで語られてしまうのか、未だ謎ではある。より早く、より遠く、そして、より強く。競技とはそういうことだ。そして、スペクテイターに向けては、その極限が生み出す、美と凄み。それだけで、格闘技だって語れる筈なのに。

直後の浅田真央の涙と悔しげな表情に、アスリートというより、勝負師の凄みをみた。そこだけは、どんなスポーツも変わらない。スポーツの持つ、本来の残酷さと、故の美と凄みというか。それこそが、真にスペクテイターの心を撃つ。