電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

仏像パワー

格闘技の世界はGW中も色々動いているようだが、おれは休暇だ、何にも知らん。長谷川穂積が負けたのにはびっくりしたが。

昨日は、こんな感じで、京都をウロウロ。昨日の「大阪で聴くビートルズ」に続いて、今日は「京都で聴くニック・ロウ」にしようかとも思ったが、それもちょっとどうかと思うので、仏像の話でも書く。

上記のログにもあるんだが、東寺で、京藍染の扇子を買った。カネ払わないと入れない五重塔周辺でもなく、宝物館でもなく、フリーで入れるところで、京藍染のミニ展覧会をやっていて。

自分は無神論者なので、神や仏に祈ったりはしないんだが、勿論、東寺みたいに国宝級の仏像がゴロゴロしているのを観れば、その荘厳さに思うことは多い。無神論者だからと言って、すべての神秘主義的なモノを否定しているわけではない。9割冗談ながらも「真言密教のパワーを己に宿す為に東寺にいく」とか書いてるわけで。が、しかしだ、作られて数百年経っている仏像より、今もまさに作られ染められ続けている藍染の展示に、パワーを感じてしまったのだ。いやいや、かなり不敬なことを書いているような気もするが、宗教色を排除して、仏像を芸術作品のひとつとしてみれば、数百年も経った仏像より、染められてすぐの染物の方が、作者のパワーのこもり具合が強いのは、当然なんじゃないかと。

つまり、数百年も作者の込めたパワーを発信し続けたら、そりゃ如何に凄いパワーであっても、それは衰えてくるような気がして。そんなことを思った。勿論、仏像は、数百年も祈られ続け、人々の祈り願うパワーを受け続けるからこそ、数百年経っても、いやさらに時間が経てば経つほど、荘厳さを増していくんだとは思うが。それはまた別の話で。

だから、仏像キーホルダー(なんてモノがあったのかチェックしてないが)より、京藍染。自分が近くに置きたいとしたら、そっちだ。ヨレヨレになりつつも、おれだって、今を生きているからね。昔の祈りより、同時代の気を受けたい。