電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

ソフトウェア作者の責任とは?

MacOSツイッター・クライアントソフト(フリー)、「夜フクロウ」のバージョンアップを巡って、色んなところに議論が飛び火していて面白い。

ツイッター・クラアントの話だけあって、ツイッター関連のマトメは散見するものの、全体の概要を一目でわかるようないいマトメが見当たらないので、簡単に説明しておけば、ツイッターには「RT」という機能があり、数ヶ月前に「公式RT」という機能もリリースされた。「公式RT」があれば「非公式RT」というのもあって、ここが面倒くさいとこなんだが(このふたつの違いを説明しているサイトはすぐ見つかる筈なので、ここで説明はしないが)、「非公式RT」は、結果「多段RT」という状況を生んでいるというのが、まず前提。

夜フクロウ」の作者があるバージョンアップで、それまで出来ていた「多段RT」を出来なくし(というのは正確ではなく、前バージョンでは存在していた「多段RTサポート機能」を廃止した)、これに不満を持ったユーザーが、フリーであっても、ソフト作者には社会的責任がある筈だと、ツイッター上で延々絡んだというのが発端。

色々な観点から考察がなされているが、ソフト作者には、ユーザーの要望に応えなくてはならない責任などある筈はないのが常識なんだが、ここで常識と書くのは、法的な責任であって、では、道義的責任(という言葉の方が、クレームつけた側が言い出した「社会的責任」なんて言葉より的確だと思う)は残るのかといえば、それはまあモゴモゴという感じで、使う側は作者にそういう責任を感じて欲しいということだろうし、作者としては馬鹿野郎そんな責任あるなら、誰がフリーソフトなんて作るかという話だ。

今回面白いのは、夜フクロウの作者は「多段RT」という行為自体に問題がある(かどうかはまた色々な考察がある)とみなし、意識的にそれを行い難くするようなカタチでバージョンアップをしたことで、こういう癖の強いソフト(という曖昧な括り方をあえてするが)、昔は多かったんだが、最近は少なくなった。

ソフトとしての充実という観点からみれば、「多段RTサポート機能」はオプション化し、デフォルト状態ではその機能は使えなくするけど機能自体は残す位の処置を取っておけば、作者の考え方も明確、ユーザー側も文句なく、問題にすらならなかったとは思うが、作者のその思想性(といえるかは微妙だが)を、ソフトを多機能に充実させることを捨ててまで、鋭く明確にするというのも、ソフト作者としての「社会的責任」の取り方のひとつであることは見落とされがちだ。

つまり、昨今にしては過激な方法でバージョンアップしたことにより、それが揉め事になり、議論があちらこちらに飛び火したことで、「多段RTはよくない」という作者の思想的主張、つまりそれを主張し実践すること、イコール社会的責任は、作者が望んだ以上に明確にされたという解釈はあっていいし、自分はそういう立場を取りたいと思う。勿論、ユーザーは何を言ってもいい。それは前提だ。

ウォッチャーとしては、火事と喧嘩はネットの華、もっとやれやれ、もっとやれと楽しめばいい。