電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

Wの悲劇(は携帯メールから始まった)

ツイッターは文字制限があるから、例えば「(笑)」と書くと、カッコを半角にしても全角にしても3文字消費、ところが「w」と書けば1文字で済み、結構偉いおっさんとかでも、「w」を使っているケースを見かける。

使われ始めた当初は、2ちゃん的笑い方(?)というか、相手を揶揄するニュアンスを乗せることが多かった。例えば何らかの発言に「w」一言で返した場合、5・6年前までは、これは間違いなく揶揄というか、否定的なニュアンスだった筈だ。

が、2ちゃんから外に出て使われるようになるにつれて、「w」は「(笑)」の純粋な代用になりつつある。勿論、その笑いの質が、素直な(笑)なのか(苦笑)なのか(微笑)なのか(失笑)なのか、そういうニュアンスはそこには乗らない。だから却って使い方が難しいと思うんだが、こんなことは、あまり深く考えない人が多いようで、結果として、あちこちで誤読や誤解を呼び、喧嘩が始まる。その喧嘩こそが面白いんだというのは、この項の目的ではないので話を戻すが。

この「w」の使い方以上に、非日本語的表現の使用例として、例えばメールでやり取りする際、絵文字を使うという自分と同年配の野郎を、何人か知っている。ニュアンスを言葉で丁寧に説明しようとすると長くなるし、相手の書いたことに対して、基本賛成なのか反対なのか、些事に異論はあっても、根本の部分でどっちなのか、その部分を明確にしておかないと、誤解を呼ぶ可能性が高く、そこを絵文字で明確にしておいた方がいいというのだ。分からないではない。自分も絵文字こそ使わないものの、メールやツイッターでの会話では「(笑)」を使う場合が増える。

が、そこを文章で説明するのが、日本語として書くのが楽しいともいえる。それが日常生活に潜む小さな表現活動、つまりアーティスティック(クリエイティブという言葉があまり好きでないのでこう表現)な作業であって、長々と言葉を交わして伝わらないモノを、対面して、目を見詰め合って、二言三言やり取りすれば、すべて解決なんてことは、実際よく有り得る(んだが、実はそれが単なる勘違いなんてこともまた多い)としても、文章に対する拘りとは、そういうことだ。

そもそもが、「(笑)」自体が、雑誌などに載る対談やインタビュー文章で、補足的に使われ始めたわけで、よりニュアンスを正確に、かつ簡潔に伝える為に、近年発明された技術であるわけだ。これがネットやメールに敷衍されるに至って、どういう意味を持つのかと言えば、文章を読むという行為より、ひとつ要求されるレベルが上にある、書くという作業が、広く一般化された結果、全体の文章作成スキル(と、あえて誤解をまねきそうな表現を使っておく)が一段落ち、平均値が下がった為、スキルアップの必要ない簡易な表現が求められ始め、それが「(笑)」であったり、顔文字であったり、絵文字であったりするんだと、自分は解釈している。

携帯メールの普及がすべてを変えたのだ。昔からあった手紙というメディア/ツール、あれに使う言葉は、あくまでヨソ行きの言葉だったんである。携帯メールによって、日本語において、初めて、日常で使えるヨソ行きでない書き言葉が登場したと自分は考えている。だからこそ、自分のように、昔ながらの書き言葉を使う人間は、一般人であっても、いや一般人であるからこそ、上から目線だとか偉そうだとか言われることが多くなる。違うんだよ、本来、書き言葉というのは、上から目線で偉そうに書くモノなんである。ここを理解していない人間は多いが、恐らく基本的には、過去の読書量で決まってくるのではないか。つまり、どれだけ書き言葉に馴染んでいるか。

だからと言って、読書量が少ない奴はダメだと言いたいわけでも、「w」やら絵文字やらを使う奴は馬鹿だ、正しい日本語を使えと言いたいわけではないので念の為。あくまで現象の分析と指摘だ。

但し、自分に関してということならば、なるべく使わないし、文章を書くという行為に拘る人間にとって、それを使わずに書くということは、修業として必須であることも、また間違いないとは思う。可能性としては、30年後には、顔文字やら絵文字やらを使った表現の方が、美的に優れていると評価されることだって有り得るかもしれない。あるかもしれないんだが、その可能性は極めて低いと思う。理由は簡単で、その使いこなしが簡単で、誰でも出来るからだ。