電脳如是我聞の逆襲

他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ

赤犬のモデルは誰か(補遺編)

ワンピース、地上波のアニメが丁度その辺りに差し掛かり、またこの検索語で来る人がやたら増えてきた。自分のヨミはここで書いたんだが、その後、単行本のオマケでそれを認める発言があったので、このヨミ正しいと確定。

上記のエントリーで「文学的常識」という言葉を使った。ミクシィでそういうことを書いたと。放っておいて、ミクシィまで来る人は、あんまりいないので、少し推敲して、ここに載せておく。1年前の文章だけど、認識は特に変わってない。

「ゆとり」という言葉は、今やネット的には(2ちゃん的にはと言うべきか)、罵倒用語になってしまっている。

例えば「ゆとり教育」が始まって、平均学力が落ちたとか何だとか、そういう事実は統計上あるんだろう(どこかで見た記憶もある)。けれど、問題はそういう話ではなく、「ゆとり」という言葉は「近頃の若いモンは」と、ほぼ同義で使われていることで。

ネットでやり取りしていると、確かに基本的な文章(やら作品やら何やら)読解力に問題がある子は、よくみかける。それが年齢的な問題とか、学力的な問題が基本にあるのだろう(と類推できる)ことも、よくある。が、同じくらいの割合で、自分と同世代やら、そこまで行かなくとも、結構歳食っている人にも、同じようなことはよくあって。

別に、文章を書いたり読んだりする能力など、大してなくても、人は生きていける。問題はネットと携帯がリンクしてしまったことで、昔だったら、文章なんて読むことも書くことも必要なかった層に、読んでもいいよ書いてもいいよと、インフラが整えられてしまったことなんじゃないのか。

問題、と書いてしまったけど、そういうインフラの整備によって、むしろ日本のゆとり世代の読解力や文章作成能力が、底上げされる可能性だって充分あるわけだ。むしろ、そう思いたい。本など一冊も買ったことないが、そこそこ文章を書ける子、読める子は、既に大量に生まれつつある。そういう子に、一律感じる問題も、間違いなくあるとは思う。極端に、文章的・文学的常識が欠如しているとか。

が、別に、それでいいんじゃないかとも思う。ごくごく一部の人間の趣味でしかなかった文学(あくまで広い意味で使っている)が、初めて大衆に開放されたとすら思う。

勿論、皮肉な気持ちはゼロではない。ゼロではないものの、本気で、それでいいような気がする。そうなってみて、そういう層に、自分が、何かを訴えることが出来るような文章を書けるかどうかは別として。

ここで書いた「文学的常識」というのは、まあもっと一般的な言葉で「教養」と言い換えてもいいのかもしれない。